2019年5月17日金曜日

CBSでダイバーシティ・マネジメントの学会に参加した

5月13日と14日、Dulgas Haveキャンパスで、「第5回リーダーシップ・ダイバーシティ・インクルージョン・ワークショップ」と題したミニ学会に参加してきた。CBSのなかには、ダイバーシティに関する研究者たちのネットワークがあり、また「ダイバーシティと変革のリーダーシップ」にフォーカスした修士課程があって、その中心メンバーであるAnnette Riesberg教授が主催者だった。



スパルタ学会だった 

8(!)から夕方まで、びっしりアジェンダが組まれている。初日は懇親会もある。

発表しているとき以外は黙って聞いているだけ、という通常の学会とは異なり、すべての発表で、聞いている側も3~4名ごとにグループワーク(!)がある。グループワークではPadletというBLOG風のグループウエアを使ってグループでの議論を即時アップしていき、発表者との質疑応答も、リアルでやるとともにオンラインでも行う。結構ハードなワークショップでした。


今度、立教でやるワークショップでも取り入れてみようかな。でも一度やったら、次から参加者が激減するかもしれません。  
 



研究対象の彼我の違いを思い知らされる

アメリカのAOMAcademy of Management)やヨーロッパのEAMSA(Euro-Asia Management Studies Association)といった学会で、数あるトラックの1つとしてダイバーシティ・マネジメントのセッションに参加したことはある。発表もやった。

そこでの主要なテーマは、どのようなインクルージョンが、社員の組織コミットメント(Organizational Commitment~モチベーションと忠誠心みたいなもんですな
)を上げ、社員の満足度とともに組織のパフォーマンスを上げるか、あたりである。


しかし今回のような、朝から晩まで、かつ2日にわたって、学会全部がダイバーシティとインクルージョンにフォーカスしたものは、2018年3月に当方が立教で主催したもの(リンクはその中の公開講演会の分です)以外、今回が初めてだった。CBSや欧州でダイバーシティに関係する研究者がどんなことをやっているのか、興味津々で参加した。  



日本の状況への驚き

当方は例によって、日本企業の取り組みが遅々として進まない(進んでいる)状況と、その背景にある経営者のものの考え方や関心について、発表した。

日本的な人事慣行(新卒一括採用と年功の重視、社内労働市場を通した適材適所とスキルの蓄積、労働市場の流動性の低さ)を維持したままで、組織における多様な人材の活用を進めようとしたときに企業が直面する、制度的な補完性の難しさ、移行費用とリスクの高さ、それに見合うリターンの低さ(低く見えること)、これらの困難に立ち向かう経営者のリスク受容性やオーナーシップ、リーダーシップ、正統性、あたりの話をデータとともにやった。 


そのような状況のなかで、組織を大きく変えることの意義を経営者に伝えるためには、短期と中長期にわけて、企業レベルでの経済的なメリットを示す必要があることを指摘した。


短期的には、ダイバーシティ・マネジメントに取り組んでいる先進的な企業が、株式市場や市民社会での差別化を通した評価によって、先行者利益がある。


中長期的には、日本的な人事慣行を維持することのコストが上がっているなか、その変革をダイバーシティ・マネジメントを組み込みながら行うことによって、采配の効率性やイノベーションの可能性などの経済合理性がある。 


参加者からは、アベノミクスの1つとしての女性活躍推進法は、国民経済上のメリットから導かれた政策のようだが、企業自身のメリットにつながるわけではないだろう、企業が主体的に取り組むインセンティブはあるのか、というもっともな質問も出た。しかしそれ以外は、おもしろい、興味深い、というコメントももらったが、実態は、遠い異国で起こっている、理解を超えたエキゾチックな話を聞いてしまった、あたりだろうか。


ひとことでいえば、企業はダイバーシティ・マネジメントに取り組むべきか、それで業績があがるのか、といったことに日本の企業の関心がある、ということ自体、彼らの多くにとって、信じられない話だったようである。

彼らの関心の対象は何か

それこそ、発表テーマ自体が多様だった。とはいえ、ざっといえば、当方以外の発表の関心は、次のようなものだ。


  • 組織や社会として向き合うべきマイノリティグループとはどういう人たちか
  • 彼らは、どのような不利益を被っていると感じているか
  • それをどう実証的に把握するか
  • 経済的な不利益以外に、疎外感や不正義など、倫理的・社会的・政治的な不利益をどう考えるか
  • それを、マジョリティはどうやって見つけ出すか、マイノリティが声を上げるまでまつのか、企業や政府が積極的に探すのか
  • 社会のタブーとどう向き合うか
  • どのようにインクルージョンをすればよいのか
  • どのような原則をたて、どのようなオペレーション上の問題に立ち向かうのか
  • これまでの分析アプローチのどこが不十分か、どのような新しいアプローチが使えるか

こういう観点から女性やLGBTに加えて、現在、政治的なテーマとなっている難民や移民、そして定義が拡大しているという障がい者、などについて、研究発表が行われた。


ちなみに障がい者の定義の拡大とは、法律のもとで定義が明確な障がい者に加え、法律とは関係なく、社員の自己申告にもとづく障がいをさす。昨今、企業はそのような障がいへの対応も必要になってきているというのだ。知りませんでした。

変わり種では、ビンゴ(!)やレゴ(!!)を使って、学生や社員に、組織における多様性やインクルージョンについて考えさせる教育法を分析したものや、言語学者が新聞記事で使われている言葉を分析したものもあった。

ビンゴはアンコンシャス・バイアスを気付かせるもので、レゴは組織における人材の多様性を客観的に俯瞰するものだ。いずれもびっくりするような取り組みである。

また言語学からの研究は、職業に関する単語が、どのような言葉と結びついて使われているかを、「ベクトル距離」という手法を使い、ビッグデータ解析を行ったものである。たとえば90年代初頭は、「秘書」と「彼女」や「エンジニア」と「彼」など、特定の職業と性別との距離が明らかに近いとみられる表現が多く存在したのに、25年たった現在では、そのような結びつきがほとんど見られなくなった、ということを実証して見せた。

このような変遷は、「ポリティカル・コレクトネス(一種の建前)」が確立した結果、記事を書く人間が言葉使いを気を付けるようになったことを示しているのか、それとも、実態として職業と性別のつながりが薄くなったことを示しているのか、という質問が出た。もっともな質問だが、研究自体からは答えが導けそうにはない。このデータ分析は、より多くの新たな質問と研究テーマを呼び起こすようだ。

日本の経営系学会で、同じようなテーマが成立するか

こういうテーマだけでは、日本の経営系学会で2日はおろか1日ももたないだろうなあ。上でふれたように、昨年(2018年3月)立教大学でダイバーシティに特化した1日半のミニ学会をやったが、発表のほとんどは、伝統的な組織行動論や人事管理論、異文化マネジメント論からの研究で、倫理や社会正義を正面から取り上げた研究は無かった。まだ日本では、企業経営者や人事のダイバーシティ担当者に対して、こういう話をやっても、引かれるのでしょう。

日本の大学では、こういう分野は、フェミニズム、マルクス主義社会学、正義と人権をめぐる法学や倫理学、あたりではちゃんと研究されているテーマだろう。しかし、経営者がそこから積極的に学ぼうという動きはなさそうだし、経営学系の学会で真正面から取り上げるところも、あまりないのではないか。

彼我の関心の違いの背景はなにか

組織にとって、多様性を取り込むことにメリットがあるのか、コストが増えるのか、といった点をめぐる議論は、ほぼなかった。

唯一の例外は、アメリカ企業において、LGBTグループを尊重する企業とそれ以外で、特許取得率に示される技術開発力(イノベーションの代理変数)に違いがあるかどうか、についての実証研究があったぐらいだ。発表を聞いているうちに、ダイバーシティ・マネージメントをやると業績が上がるのか、という質問自体が成立しない状況を改めて考えざるを得なかった。


多様性を受け入れない企業自体、まともな経営をしていない企業とみなされるのだろう。その上で、対象の範囲や、インクルージョンの稚拙などが、経営上の課題となっているようだ。

気づいたことが2つある

当方が、50年前のアメリカでは、労働者を差別することが、資源配分の効率性を上げるか下げるかという議論が、公民権運動の高まりのなかで起こった、その中で、人種や性別をもとに労働者を差別(区別)すると、結果的に人件費の高止まりと資源配分のゆがみをおこすことが実証されてきた、ということを指摘すると、何ですかそれ、という顔をする研究者が多かった。

たんに彼らの分野が経済学と違う、というだけのことなのか。

欧州でも経済学(とくに組織の経済学~かつての労働経済学)の学会では、ちがう関心を持ち、違う議論が行われているのか。しかし経営学を学ぶ人間が集まって、経済的な効率の観点がまったくなかったのは、やはりちょっとびっくりしました。

発表を聞いているうちに、2つのことを思った。1つは出稼ぎ労働者の問題、もう1つは、環境問題である。

出稼ぎ労働者とインクルージョン

出稼ぎ労働者というと、ドイツが有名だ。しかしデンマークでも、60年代から70年代に、トルコ人を中心とした出稼ぎ労働者を多数受け入れたという。

日本と同様、ヨーロッパでも当時は高度経済成長期で、労働の供給がひっ迫していた。背に腹は代えられぬと、単純なブルーカラーの仕事をしてもらうため、トルコなどから労働者を受け入れたのだ。

なぜそれが、欧州のダイバーシティをめぐる問題意識と関係しているか。

それは、当時、ダイバーシティ・マネジメントという考えがないまま、出稼ぎ労働者を迎え入れたことをめぐる反省であろう。今回の学会で、そのこと自体をとりあげた研究はなかったが、さまざまな場面で、この問題が亡霊のように出てきた。

当時の欧州では、これら出稼ぎ労働者を、組織における多様な人材として遇するという発想が全くなかったようだ。企業としても社会としても、彼らをインクルージョンするという考えが皆無だったのだ。

「出稼ぎ労働者(Guest Workerという用語をつかっていた)」という言葉が示すように、彼らは腰かけでいずれ母国に戻る労働者、とみなしていた。そして、そのような無策のつけを、デンマーク社会は今になって払っている。そのコストとは、犯罪率の上昇や社会不安、社会的分断などである。それは、値段をつけようにもつけられないほど高い、と考えているようだ。

このような後悔の念があって、企業も社会も、多様な人材を受容することは当然と考えるようになったのだろうか。これは公共経済学をつかうと、将来発生する可能性のある負の外部経済を、予防的な費用の分担を行うことで防ごう、という話である。

2019年4月に改正入管法が施行された。日本でも本格的に海外からの労働者を受け入れるようになるという。ダイバーシティとインクルージョンの観点からの議論も必要になってくるだろう。

環境問題とダイバーシティマネジメント

もう1つは、環境問題とのパラレルである。個々の企業が、環境問題にどこまで責任をもつべきか、そのためにかかるコストをどこまで負担すべきか、という問題と、ダイバーシティ・マネジメントをめぐる企業のコスト負担との間に、似た構造があるようだ。

企業の生産活動や製品の提供する価値に負の外部経済が含まれる場合、だれが環境問題の被害者の補償をするか、という問題がおこる。企業は、直接の因果関係が見えない限り、知らんふりをして、費用を負担せずにすませられるからである。

環境問題をめぐっては、日本を含む先進各国で、長い時間をかけて、具体的な法規制と社会規範の変化の2つが起こってきた。その結果、個別企業が、狭い因果関係のあるなしにかかわらず、騒音や排煙、廃液などの処理にかかる費用を負担することが、先進国ではあたりまえになった。他方、法規制も社会規範もまだ整っていない途上国では、企業はそのような費用負担を「余計なコスト」とみなしている。

CBSでの発表を聞いていて、そのことを思い出したのは、ひょっとしたらデンマークや欧州の企業経営では、環境問題と同様に、人材の多様性を認め、それを受け入れて経営することが、法的にも社会規範上も、前提として成立しているのではないだろうか、と考えたからである。

もしそうだとしたら、環境問題の場合と逆に、おそらくは組織における多様性は正の外部経済を持っていて、各企業が個別にそれを回収することは困難だが、社会全体として、その恩恵にあずかることができる、という話なのだろうか。

これら2つの点は、いままで考えたこともなかった内容だ。これからすこしゆっくりと考えてみたいと思う。

2019年5月7日火曜日

デンマークで若いリーダーが登用されやすいのはなぜか

CBSに新しい学長が就任した

今朝(2019年5月3日)、大学へ向かって歩いていたら、ひょうが降ってきた。気温は8度でした。コペンハーゲンの5月は寒かった。歩きながら、昨日の午前中、学部で新学長を迎えてミーティングをやったのを思い出していた。

昨年の暮れ、任期を一年以上残して辞任を表明したPer Holten-Andersenの後任探しの結果、若干44歳(!)で南デンマーク大学の経済学教授で副学長のNikolaj Malchow-Møllerを新学長として迎えることが決まった。

この3月に着任してから、11ある学部とミーティングを行ってきた。その最後に、当方がお世話になっているEGB学部(Department of International Economics, Government & Business)にやってきたのだ。略歴を見ると、労働経済学の研究者としても一流の業績を上げている。

90分のミーティングでは、もっぱら聞き役に徹していた。学部長のJensが学部全体の話をしたあと、Ardhana、Hotho、Nis、Njornの、ベテランから新人まで4人の研究者がそれぞれの研究を、Carolineが産学連携や外部資金を、Eddyが教育を紹介し、何がうまくいっていて何が難しいか、大学にどのようなサポートを期待するか、などを話した。そして短いQ&Aをやった。学部としてのポジショニングもでき、研究内容の多様性やクオリティもアピールできるいい中身だったと思う。それについてはまた別の機会にまとめるとして、この国(や北欧諸国)で「組織の長」の選抜とその背景の考えが、日本のそれとかなり違うことを痛感したので、それを書いておきたい。

デンマークの組織は、若い人材をトップに登用しているのか

デンマークの主要な企業では、CEOは何歳のときに就任したか。時価総額の上位企業(いわゆるラージキャップ企業)をざっと見ただけでも、若いことがわかる。

  • ノボノルディスク(Novonordisk:売上約2兆円の医薬品会社で同国の上場企業として最も時価総額が高い)~Jørgensen(47歳)
  • マースク(Maersk Line:世界最大の海運会社)~Skou(48歳)
  • ウェステ(Ørsted:同国最大のエネルギー会社、旧Dong)~Poulsen(45歳)
  • コロプラス(Coloplast:世界的な医療器具メーカー)~Villumsen(47歳)
  • DSV(同国最大の運輸業)~Andersen(42歳)

ラージキャップ企業ではないが、北欧3国政府の共同出資で発足したスカンジナビア航空(Scandinavian Airlines)の現CEO、Gustafsonがその任についたのは47歳、非上場だが同国最大のIT企業KMDの現CEOに、デンマークで最も有名な女性経営者の一人であるBernekeが就任したのは45歳だった。

表面的には、アメリカ企業のCEOの登用とあまり変わらないように見える。

もちろん例外もある。時価総額上位6位の世界的ビール会社カールスベア(Carlsberg)のHartは57歳で、同7位の風力発電メーカー・ベスタス(Vestas)のRunevadは53歳で、それぞれCEOに就任した。とはいえ前者はオランダの多国籍企業の社長を、後者はスウェーデンの多国籍企業の役員を、ヘッドハントしてきたものだ。いずれもそれぞれ前職で、若いときに企業幹部に登用されている。

デンマークを始めとした北欧企業の組織経営の面白さについては、別のところで改めてまとめるとして、このように、デンマークで組織が若いリーダーを選ぶのはなぜか。デンマーク企業のトップの登用のあり方は、アメリカ企業のそれと似ているのか。

経営者は、何をめざすのか

チャンドラー(1977)は、経営者の役割を「見える手(Visible Hand)」と呼んだ。アダム・スミスが、市場を「神の見えざる手」によって資源の最適配分が行われるとしたことに対比した名言だ。組織のトップは、人知によって稀少な経営資源の采配を行い、価値を生み出し、利益をあげるのだ。

経営者による采配の仕方は、世界中で同じというわけではない。

ホール&ソスキス(2001)や青木昌彦(2001)の比較制度理論を使えば、ざっくり言って日本企業の経営の特徴は「ステイクホルダー型経営」だ。これはアメリカ企業に代表される「ストックホルダー型経営」と対極に位置する。

ストックホルダー型経営では、株主の求める利益の最大化が、経営の最も重要な目標になる。その目標に沿って、組織を采配し、価値を提供する。それに応えられない経営者は、すぐクビだ。

それに対し、日本企業のようなステイクホルダー型経営では、株主だけでなく、社員や顧客、取引先や銀行、地域社会など、さまざまなステイクホルダーの求めに応えることが重要となる。利益があまりあがらなくても、雇用を守り、取引先との関係を継続し、顧客の期待に応えられる経営者は、優れた経営者なのだ。

だから日本の経営者には、通常の業務遂行能力に加え、様々なステイクホルダーとのコミュニケーションや、ステイクホルダー間の調整に長けた人物が求められる。

そのような能力を、将来、卓越して発揮してくれそうな人物を探し、互いに競わせながら、時間をかけて育成する。そうやって、候補者を徐々に絞り込む。そのプロセスは社内で一目瞭然なので、ある日突然、知らない人間がトップになるというサプライズは起こらない。衆目の一致する候補者が残っていき、その中から、最終的にトップが選ばれる。

トップに就任する年齢も、そういうわけで高くなる。さまざまな部門を経験し、業績をあげ、社内の人脈に長け、バランス感覚があり、すぐれた意思決定ができる人材は、即席で育成できるものではないからだ。

もちろん未だに多くの日本企業では、現社長が次期社長を指名する。だから、現社長のえり好みや院政の可能性、といった要素の入る余地は少なくない。

デンマークの企業経営は、日本型かアメリカ型か

デンマーク企業も「ステイクホルダー型経営」と言われている。

CEOは会社の業務執行のトップと位置付けられ、その監督を行う取締役会のメンバーにはならず、監督と指示を受ける。取締役会のメンバーは、株主の利害代表に加え、会社法の定める従業員代表(最低2名)や、同国のガバナンスコードの求める、広く社会の利害を代表できるメンバーで構成される。

さらに興味深いのは、株主構成だ。主要なデンマーク企業は、「産業財団(Industrial Foundation)」と呼ばれる大株主によって、実質的に保有されている。CBSのトムセンらの研究(2013)によれば、上場企業の6割近くがそうだという。加えてレゴ(Lego)のような、未だに創業一族の所有する非上場の大企業もある。

産業財団のほとんどが、創業者の保有する株を財団に寄付することで始まった。一見すると創業家の税金対策のように見える。しかし税法と財団設置法のもと、財団は公共の利益の増進が設立目的として義務付けられており、創業者一族だけの狭い利益を追求しようとしたら、その存続が許されないようになっている。

そのような制度のもと、これらの財団が、アメリカの株主行動にみられる短期的な利益最大化とは異なり、長期的な企業価値、ならびに、社会的な責任、を強く企業経営に求める極めてユニークな株主行動をとっていることが、トムセンらの最近の研究(2018)から実証的に示された。

デンマークの組織のトップに求められる資質はなにか

デンマークで、企業がステイクホルダー型経営をやっているのであれば、そのトップも、日本企業のトップと同様に、長い年月をかけ、社内のさまざまな部門を経験し、社内外のステイクホルダーとともに仕事をし、ノウハウを蓄積する必要はないのだろか。就任時の年齢も、高くなってしまうのではないか。

この点について、いろんな企業を回り、話を聞かせてもらった。それをざっと要約すると、大きく3つの点があるようだ。

1つは、さまざまなステイクホルダーとのコミュニケーションや調整には、知恵だけでなく、体力も気力も必要というものだ。この国の企業のトップを務めるのは、これらすべてがそろった、ちょっとしたスーパーマン、スーパーウーマンでなければならい。若くて優秀な人間を探しているのだという。

2つめは、柔軟性、リスク耐性、機敏さ、先を見る目である。どの企業を訪れても枕詞のように、「デンマークは小さな国だから」という話で始まる。グローバルな競争の海のなかで、小舟のように翻弄されているのだという。

その舵取りには、先を見る目が必須である。そして柔軟に機敏に、変革を恐れず、リスクをとって、新しいことに挑戦しなくてはならない。そのようなことを、よりうまくできる人材を探していたら、たまたま年齢が比較的若いCEOに託すことが多くなったのではないか、というのだ。

3つ目が、組織でリーダーシップを発揮するには、ある程度の期間が必要で、歳を取ってからでは難しいのでは、というものだ。

日本の上場企業の社長の在任期間は平均すると7年強である。アメリカやデンマークに比べて2年ちょっとしか、短くない。しかし日本の上場企業の半分は、何らかの同族会社であり、その社長の平均在任期間は10数年と長い。これらを除くと4年未満になる。同族企業ではない日本の大企業の多くでは、整然と順繰りに、社長を2期4年やって交代することが多い。

この話をデンマークですると、みなびっくりする。大胆な決断をし、新しい方向へ企業を方向付けし、組織を改革し、結果が見え始めるのに、4年では短すぎるでしょう、というのだ。

こちらでは、まずは6~7年、腰を据えて経営をしてもらうつもりで、CEOを探す。それで順調であれば、さらにあと数年、やってもらう。そういう意味で、40代の中ごろから後半というのが、一つの目安になるようだ。

デンマーク人も、経験の重要性を否定しない。だが、経験は少なくとも、能力にも体力や気力にも満ちている人材と、経験は豊富で能力もあるが、体力や気力は若い人ほどではない人材がいたら、前者のほうがいいでしょう、と言われた。すぐれた能力で経験不足は補えるが、多くの経験があるからと言って、それで体力や気力までは補えないではないか。

歳をとったら何をするか

別の企業では、経験は豊富だが、体力や気力がピークアウトした人材は、若いCEOをサポートする側に回ればいいではないか、と言われた。そのあと、「私のようにね」と付け加えた。

「えっ」と聞き返すと、彼はなんと前CEOで、若くて優秀な現CEOの就任とともに、常務執行役になり、現CEOの部下として彼を支えているのだとう。

前CEOが、新CEOの部下になるというのは、日本では聞いたことがない。降格で、報酬も下がるので、屈辱的なのではないか。あるいはCEO退任後も同じ組織に残る、という意味なら、日本風には、さしずめ院政を敷いて実質的なトップに居座るという話だろう。ガバナンス上、老害が問題になるのではないか。そんな心配はないのだろうかと、探りを入れてみた。

それに対しては、屈辱的と思うなら、引き受けないだろうといわれた。自分は報酬が下がったが、CEOのときの大変さを考えたら、全然問題ないとも、この国は累進課税なので手取りはあまり変わらなかったかな、とも。(注:ただし最後の点は、たぶんジョークのつもりでしょう。この国の累進所得税では、中堅企業のマネジャー以上はみな、最高税率を払っているはずです。)

また、現CEOが自分を使えないと思ったら、首を切ればよい、それができずに経営上の問題が起こり始めたら、経営を監督する取締役会が現CEOに質せばよい、とも言われた。ガバナンスの教科書に書いてある通りのことだが、ほんとうにできているのだろうか。現CEOが前CEOに遠慮したり、恩やしがらみを感じたりすることがあるのではないか。

他方で、ホフステッドらの異文化経営の研究であきらかにされたことの1つに、デンマークは世界でも有数の、パワー・ディスタンス(いわゆる上下関係、権力関係)の低い社会だということを思い出す。これによれば、日本にみられる長幼の序も先輩後輩のしがらみも、ほとんどないことになる。

上下関係や権力関係といった観点から組織を考える必要がないということは、CEOという仕事は、組織ピラミッドの頂点に君臨するポジションではなく、さまざまな仕事を分業で行うなかでの、単なる1つの役割だ、ということなのかもしれない。ここらへんは、もう少し、調べてみる価値があるだろう。

中堅以下の企業では、同じ組織の中で、前CEOが新CEOの部下になることは、それほど珍しいことでもない。とはいえさすがに、デンマークを代表する大企業で、前CEOが新CEOの部下になる、というケースはみつけられなかった。多くの場合、大企業でCEOを務めあげた後は、別の企業(それもデンマーク企業とは限らない)のCEOとして招かれている。業務執行側から、別の企業の監督側のポジションである取締役や、産業財団のボードに招かれることもあるようだ。

日本の企業経営に参考になるのか

つくづく、ところ変われば品変わるだ、と思わされる。では、このような、デンマーク企業の経営トップの選抜の在り方は、日本企業の経営に、なんらかでも参考になるのだろうか。

アメリカ企業の経営よりは、参考になるのではないか。

デンマークも日本も、ステイクホルダー型の経営という点で、似ているからだ。その意味で、この20年間、日本の多くの企業でアメリカ型のガバナンスが取り入れられてきたが、それとは異なるデンマーク型のガバナンスのほうが、日本企業には共感でき、取り入れられるところもあるのではないか。

かつてはデンマークの企業でも、日本企業のように、時間をかけて経営トップの候補者を内部で育成するやり方をとっているところも多かったという。しかし、徒弟制度のような時間のかかる育成では、グローバル競争の荒波のなかでデンマーク企業が生き残っていくのは難しい、背に腹は代えられないと、登用のあり方を変えてきたという。

経営者に必要な資質を、企業特殊なものとそれ以外に分け、暗黙知としてしか伝えられない部分がどれほどあるのかを厳密に見極めていったに違いない。同じことは、日本企業でもできないはずはなかろう。そこを乗り越えられれば、以外と日本企業でも、もっと若い人材を登用できるようになるのではないか。

他方で、上下関係(パワー・ディスタンス)に見られるような、文化や社会規範に根差した彼我の違いもある。若い幹部を年配の部下が受け入れることへの抵抗は、日本には強いかもしれない。

しかしこれだって、多様性を尊重するという社会規範を育み、労働市場をもう少し流動化して、多様な能力を認め、年齢に基づく区別や差別を減らす(すなわち年功の要素を減らすとともに、定年も廃止するなど)ことができれば、変わっていくことができるのではないかとも考える。