2019年9月9日月曜日

デンマーク人と日本人で、「チームワーク」という言葉の意味が違うらしい

わがゼミは、毎年、CBSを含む海外の提携大学からの交換留学生たちを半年から1年、受け入れて、日本人ゼミ生とともに学んでいる。一緒にやるときは英語の文献を読み、プロジェクトをやる。それで気が付いたことがある。「チームワーク」という言葉の意味が、どうやら我々日本人と彼らとで、かなり違うようなのである。留学生、とくにデンマークからきた学生のグループワークのやり方は、日本の学生のそれとは、似て非なるものだ。

グループ・プロジェクト

もちろん日本人学生のなかにもいろいろいる。真面目にチームワークをやる学生にフリーライドしてしまう学生もいたりする。しかし少なからぬ学生はしっかりと時間をとり、ミーティングを重ね、濃厚に意見を交わし、全員参加でプロジェクトを進めてくれる。そして時々、こちらが予想してなかったような、面白い発表をしてくれたりする。

そのチームの中に、デンマーク人など海外からの学生が入るとどうなるか。

日本人と同じように、グループワークをやる学生もいる。せっかく日本に来たのだし、自分の国の大学には存在しない、ゼミなるもので、日本人と同じように勉強してみよう、という意気込みが感じられたりする。数年前には、ゼミ合宿に参加した留学生もいた。

しかし少なからぬ場合、チームワークのやり方に違いがでる。

もっとも典型的なのが、最初に分担を決め、スケジュールを作ったら、あとは一人で淡々と分担した箇所をやって、発表の日にそれを組み合わせて終わり、というパターンである。発表直前まで、互いに何がどこまで出来上がっているか、わからないままなのだ。でも、出来上がった自分の担当箇所は、結構、ちゃんとできている。時々、前後の部分とのつながりが悪かったりする。

日本人学生は、あいつらは真面目ではない、と文句を言う。

デンマーク人学生は、なんで文句を言われるのかわからないという。

議論を戦わせるなかで、学ぶこともあるでしょうとアドバイスしても、そのような議論は、本来、ゼミのなかでやることなのではないか、と逆に質問される。

グループワークの意味が違う

デンマーク人学生の話を聞くと、グループワークとは、1つの課題を、複数の学生が分担して行うことであって、同じ作業を複数のメンバーが共同で行うことではない、という。分担がうまくできるために、まず最初に、課題をどのように切り分けるか、そのどの部分をだれが分担するか、を決めることは重要なプロセスであり、ここに時間をかけることは理解できる。しかし、そのあとは各自が責任をもってやることではないか、それ以外に皆で話し合わなければならないことがあるのかとも。

日本人学生は、自分できちんと勉強していないから、議論と称して他の学生に教えてもらおうとしているのでは、という意見も出てきた。極めつけは、日本人学生と議論をしても、意味のある議論というよりも、単なる意見のいいあいになることが少なくない、というものだ。

そのような意見の依拠する考え方や根拠となるデータを問いただし、確認することが少ない。だから、理論の理解が不十分ではとか、別の理論も使えるのではとか、データが不十分なのではとかいった突っ込んだ話に発展することもあまりない。

なにより、そのような議論ができるメンバーが少なく、発言がいつも限られていて、それ以外のメンバーは黙っているだけなので、議論に偏りがある。自分たちも、自国の大学でグループワークをやっているが、日本人学生のやり方は時間が余計にかかるわりに、結果が各段に優れているわけでもない。

彼らにとってのグループワークとは、複数の人間が仕事をきちんと分け、それぞれが、分担した仕事に責任をもって仕上げ、またそれを最後に組み合わせることであっても、グループ全員で議論しながら全体をまとめることではないようだ。もう一つ、最小限の時間とエネルギーで、最大の成果をだそうという、生産性への意識も強い。

ちなみに、グループワークについて、このように考えている学生は、デンマーク人だけでもない。北欧の学生はいずれもそうだし、フランス人学生もそうだった。また、この状況はわがゼミだけでの話でもない。CBSに来てデンマーク人学生がグループで卒論や修論をやるのを手伝ってきたが、そのときのデンマーク人同士のプロジェクトでも、彼らは日本人からしたら、グループワークではないだろうと思うような、淡々とした仕事の分担に基づくグループワークでプロジェクトを完成させる。

摺り合わせ型、レゴブロック型

グループワークをめぐる日本人学生とデンマーク人(それ以外も含む)学生との違いを考えていて、はたと気がついた。日本とアメリカの製造業の違いでよく指摘される、擦りあわせ型の生産と、モジュール型の生産に似ていないだろうか。

藤本隆宏(2001)らの議論によれば、ものづくりは「摺り合わせ」型と「モジュール」型に分かれる。前者は、長いつきあいのパートナー企業に、特注で部品を作ってもらい、それをすり合わせながらものづくりをしていく。後者は、つきあいのあるなしとは関係なく、毎回、入札で安い汎用品を買い付け、組み合わてものづくりをする。

前者では、ゼロから作ってもらう特注部品やパーツを使ってもらえるので、緻密でぴったりとフィットする製品を作ることができる。時間をかけて、こちらが希望する部品やパーツについて理解してもらい、場合によっては、作ってもらうために必要な機械や設備、職人の訓練に投資をすることから始めてもらう。

このような信頼のできるパートナー企業を見つけ、長期的な関係を維持していくことは容易ではない。値段の安さや短期的な効率だけを重視していたら、そのような関係はまず築けない。

後者では、義理もしがらみもなく、値段の安さや短期的な効率を実現できる。他方で、市場で簡単に調達することの難しい部品やパーツを使った製品を作ることは難しい。


2019年6月19日水曜日

カネカ炎上

いまごろになって、カネカ社が育休から戻ってきた男性社員に転勤を命じて炎上した話を知りました。あちこちで記事になり、議論されているので、いまさら感があるとは思いつつ、あえてひとこと。


そろそろ、転勤を含む総合職の采配のやり方を、「人権」と「エンゲージメント(企業と社員のベクトルをあわせること)」の観点から、考え直した方がよいのではないか。


総合職という職種は何をする仕事か

日本の企業の多くが、新卒一括採用で「総合職」という人材(の卵)を採用している。どういう仕事をするポジションかといえば、広い意味でで「基幹的な仕事」がメインだが、常にそうだというわけでもなく、「いろんな仕事」がまわってくる。

そのため、求職条件や就業規則に、「業務の都合で、配置転換や転勤を命じることがある」などと書かれている。これは、社員がそれを拒むと、解雇を含む懲戒の対象となることを意味する。

判例も定着していて、よほどのことがない限り、会社の命令は合法とされる。「よほどなこと」とは、本人側に正当な事由があるか、逆に、会社側にそれがない場合だ。

就活にいそしむ20代になったばかりの学生(今までは、その多くが男)は、自分のこれからの人生にとって、これがどのようなインパクトを与えるか、あまり考えないのだろう。会社に入ってからも、配置転換や転勤はサラリーマンとしてあたりまえのことだと受け入れている。


かなり異常な采配が当然の「総合職」

しばらく前のことだが、企業人とダイバーシティ・マネジメントの勉強会をやっていて、総合職の転勤制度は、海外では人権侵害とされる可能性があると話して、驚かれたことがある。

当方の関心が「経営の国際比較」なので、つい、ほかの国ではどうなっているか気になる。ざっと調べたことがあるが、いわゆる先進国(OECD上位20か国)で、多くの社員に対してこのような就業規則が適用されるのは、日本ぐらいだ。

アメリカやヨーロッパでこれに近いのは軍隊だろう。通常の企業では、営業とか人事とか広報とかいった職種別で求人があり、採用される。たとえば営業職として採用されたあと、会社の都合で人事に異動するということは、普通はない。

もちろん、採用された職種のなかで、転勤を打診されることはある。しかしそれを拒んだからといって、解雇や降格などはない。もし、そのようなことになったら、社員は企業を「雇用契約違反」で訴えればよい。すぐに勝つだろう。もともと雇用契約や就業規則に、そのような条件が含まれていないからだ。

したがって、会社側は転勤の本人のキャリア上のメリットを説明したり、昇給や昇進などのインセンティブを提供したりして、社員が納得して転勤をしてくれるよう努力する。転勤先に、配偶者用のポジションを用意することも、珍しくない。

軍隊以外で総合職に近い職種では、「幹部候補生(MT~Management Trainee)」というものがある。複数の部門を渡り歩いて、幹部候補として経験を積んでもらうことが雇用条件として明記されていることが多い。勤務地もグローバルだったりする。

しかし総合職との決定的な違いは、少なくとも3つある。

一つが期間。日本の総合職は、終身雇用が前提だが、MTは期間限定の、双方にとっての「お試し」的なポジションという位置づけである。決められた期間のうちに、幹部候補としての実績を上げられなかった場合は、幹部として登用されず、契約を打ち切る、という条件がつく。

次が人数や機会をめぐるもの。MTは、ごく少数の、選りすぐりを対象としたポジションだ。また、日本のように毎年、定期的に募集するわけでもなく、したがって、入社年次などという、役職とは別の社内の上限関係もない。

3つ目が、仕事の内容だ。日本の総合職が、基幹的な仕事もすれば、それ以外の「雑巾がけ」もするのに対し、MTでは、徹底的に基幹的な仕事を与えられる。

職種ではないが、「幹部育成プログラム(MAP~Management Acceleration Program)」というのもある。アメリカでもヨーロッパでも、内部登用を重視する企業はいまだにある。そのような企業では、人事制度の1つとして、将来、幹部となってくれそうな優秀な社員を選抜し、このプログラムに乗せる。そのなかで、採用された部門とは異なる部門に異動したり、転勤をオファーされたりするのだ。

MTでもMAPでも、異動や転勤をめぐっては、情報をくわしく開示する。なぜそのような異動が意味あるものか、本人に説明し、本人が納得し、合意することで次に進む。期間も区切られている。また、対象となる人数も、全体の社員のなかのごく一部である。

このように、日本以外の先進国の企業でも、異なる部門への異動や転勤はあるのだが、その実態は、日本とはかなり違う。

多様な人材の采配(ダイバーシティマネジメント)

ちょうど今週、ゼミOBたちが訪れて来てくれている。昨日、彼らと一緒に、コペンハーゲンから電車で30数分の、スウェーデンの街に行ってきた。ルンド(Lund)にある日系企業で働くスウェーデン人と、晩飯を食べながら話を聞かせてもらうためだ。同社は日本を代表する多国籍企業で、ヨーロッパにおける研究開発拠点を同地で展開している。1500人ほどのエンジニアが働いているそうだ。

話を聞いていたら、自分のチームにいる2人の社員のことを教えてくれた。一人はポルトガル出身で、ポルトガル人と結婚したので自国に戻って働きたいと申しでて認められたそうだ。一年に何回かルンドに出張に来る以外は、リスボンの自宅で仕事をしているという。

もう一人はフランス人と結婚したスウェーデン人で、奥さんはニースで仕事をしているそうだ。最初のうちは、互いに休暇を使って、行ったり来たりしていたが、ポルトガル人の同僚がリスボンで在宅勤務をするのを見て、自分もニースで仕事をしたいと申し出て、認められたという。

20人ほどのチームのなかの2人というから、メンバーの一割が遠距離、しかも海外の在宅勤務ということになる。日本の会社で、「沖縄出身の彼女と結婚するので、今の仕事は続けたいが、彼女の地元に引っ越したい」と言ったら、なんといわれるだろう。

しかしメールや電話、ネットテレビ会議などで連絡をとりながら仕事をしていて、離れたところにいるという意識もなく、仕事上、困ったことがないという。二人とも優秀で、しっかり仕事をしてくれている。そればかりか、ポルトガルやフランスの動きもリアルタイムで教えてくれるので、助かっているとも。

異なる能力をもち、さまざまな事情を抱えた、多様な人間が集まった組織で、どのように人材を采配するか。本人の望まない単身赴任が回避でき、ワークライフ・バランスもとれ、本人の満足度もあがれば、リテンション(人材確保)も、エンゲージメント(会社と本人のベクトルあわせ)も実現できて、業績への貢献も高いはずだ。

カネカ炎上と「人権」と「エンゲージメント」

教えてもらったポルトガル人やスウェーデン人のケースと似たようなことは、日本の親会社では同じようにはできていないらしい。日本の親会社ではできないダイバーシティ・マネジメントが、ヨーロッパの子会社で、実現している。

なぜか。

カネカのホームページを開けたら、最初に次のようなお知らせが掲載されていた。

やはり炎上を気にしてのことだろう。ある意味で、真面目な会社だと思う。他方で「育児休暇をとった社員だけを特別あつかいできない」という一文にくぎ付けになる。

ゴルフや囲碁は、異なる能力を持った人が一緒にプレイできるよう、最初にハンディをつける。これを特別扱いしてずるい、とは言わない。多様なメンバーでプレイできるおかげで、みなが楽しめる。

それと似て、長時間働ける人や、短時間しか働けない人など、人それぞれに異なる状況があることを認め、それにあわせて柔軟に処遇を行うことができれば、みなそれぞれに納得して、力を発揮するはずだ。

また同社は、特別あつかいしない状況とは、父親が育児を満足にできない状況だと間接的に認めていることになる。これも、問題ではないか。

ワークライフ・バランスを、社員の《主観的》な問題とする考え方からは、転勤により育児ができずワークライフ・バランスが維持できないと文句をいう社員は、「わがまま」とされるのだろう。

しかし、ヨーロッパで広く受け入れられているように、《尊厳》や《人間らしい生き方》を、すべての人間に備わった《基本的な人権》の一部とする考えにたつと、働き手が納得できるようなワークライフ・バランスの成立しないような仕事のさせ方は、人権侵害とさえいえる。

他方で、一人ひとりの違いを認め、尊重し、公正に評価したうえで処遇をすることができれば、働き手のエンゲージメントもあげられる。組織として、業績の向上にもつなげていくことができるはずだ。

2019年5月17日金曜日

CBSでダイバーシティ・マネジメントの学会に参加した

5月13日と14日、Dulgas Haveキャンパスで、「第5回リーダーシップ・ダイバーシティ・インクルージョン・ワークショップ」と題したミニ学会に参加してきた。CBSのなかには、ダイバーシティに関する研究者たちのネットワークがあり、また「ダイバーシティと変革のリーダーシップ」にフォーカスした修士課程があって、その中心メンバーであるAnnette Riesberg教授が主催者だった。



スパルタ学会だった 

8(!)から夕方まで、びっしりアジェンダが組まれている。初日は懇親会もある。

発表しているとき以外は黙って聞いているだけ、という通常の学会とは異なり、すべての発表で、聞いている側も3~4名ごとにグループワーク(!)がある。グループワークではPadletというBLOG風のグループウエアを使ってグループでの議論を即時アップしていき、発表者との質疑応答も、リアルでやるとともにオンラインでも行う。結構ハードなワークショップでした。


今度、立教でやるワークショップでも取り入れてみようかな。でも一度やったら、次から参加者が激減するかもしれません。  
 



研究対象の彼我の違いを思い知らされる

アメリカのAOMAcademy of Management)やヨーロッパのEAMSA(Euro-Asia Management Studies Association)といった学会で、数あるトラックの1つとしてダイバーシティ・マネジメントのセッションに参加したことはある。発表もやった。

そこでの主要なテーマは、どのようなインクルージョンが、社員の組織コミットメント(Organizational Commitment~モチベーションと忠誠心みたいなもんですな
)を上げ、社員の満足度とともに組織のパフォーマンスを上げるか、あたりである。


しかし今回のような、朝から晩まで、かつ2日にわたって、学会全部がダイバーシティとインクルージョンにフォーカスしたものは、2018年3月に当方が立教で主催したもの(リンクはその中の公開講演会の分です)以外、今回が初めてだった。CBSや欧州でダイバーシティに関係する研究者がどんなことをやっているのか、興味津々で参加した。  



日本の状況への驚き

当方は例によって、日本企業の取り組みが遅々として進まない(進んでいる)状況と、その背景にある経営者のものの考え方や関心について、発表した。

日本的な人事慣行(新卒一括採用と年功の重視、社内労働市場を通した適材適所とスキルの蓄積、労働市場の流動性の低さ)を維持したままで、組織における多様な人材の活用を進めようとしたときに企業が直面する、制度的な補完性の難しさ、移行費用とリスクの高さ、それに見合うリターンの低さ(低く見えること)、これらの困難に立ち向かう経営者のリスク受容性やオーナーシップ、リーダーシップ、正統性、あたりの話をデータとともにやった。 


そのような状況のなかで、組織を大きく変えることの意義を経営者に伝えるためには、短期と中長期にわけて、企業レベルでの経済的なメリットを示す必要があることを指摘した。


短期的には、ダイバーシティ・マネジメントに取り組んでいる先進的な企業が、株式市場や市民社会での差別化を通した評価によって、先行者利益がある。


中長期的には、日本的な人事慣行を維持することのコストが上がっているなか、その変革をダイバーシティ・マネジメントを組み込みながら行うことによって、采配の効率性やイノベーションの可能性などの経済合理性がある。 


参加者からは、アベノミクスの1つとしての女性活躍推進法は、国民経済上のメリットから導かれた政策のようだが、企業自身のメリットにつながるわけではないだろう、企業が主体的に取り組むインセンティブはあるのか、というもっともな質問も出た。しかしそれ以外は、おもしろい、興味深い、というコメントももらったが、実態は、遠い異国で起こっている、理解を超えたエキゾチックな話を聞いてしまった、あたりだろうか。


ひとことでいえば、企業はダイバーシティ・マネジメントに取り組むべきか、それで業績があがるのか、といったことに日本の企業の関心がある、ということ自体、彼らの多くにとって、信じられない話だったようである。

彼らの関心の対象は何か

それこそ、発表テーマ自体が多様だった。とはいえ、ざっといえば、当方以外の発表の関心は、次のようなものだ。


  • 組織や社会として向き合うべきマイノリティグループとはどういう人たちか
  • 彼らは、どのような不利益を被っていると感じているか
  • それをどう実証的に把握するか
  • 経済的な不利益以外に、疎外感や不正義など、倫理的・社会的・政治的な不利益をどう考えるか
  • それを、マジョリティはどうやって見つけ出すか、マイノリティが声を上げるまでまつのか、企業や政府が積極的に探すのか
  • 社会のタブーとどう向き合うか
  • どのようにインクルージョンをすればよいのか
  • どのような原則をたて、どのようなオペレーション上の問題に立ち向かうのか
  • これまでの分析アプローチのどこが不十分か、どのような新しいアプローチが使えるか

こういう観点から女性やLGBTに加えて、現在、政治的なテーマとなっている難民や移民、そして定義が拡大しているという障がい者、などについて、研究発表が行われた。


ちなみに障がい者の定義の拡大とは、法律のもとで定義が明確な障がい者に加え、法律とは関係なく、社員の自己申告にもとづく障がいをさす。昨今、企業はそのような障がいへの対応も必要になってきているというのだ。知りませんでした。

変わり種では、ビンゴ(!)やレゴ(!!)を使って、学生や社員に、組織における多様性やインクルージョンについて考えさせる教育法を分析したものや、言語学者が新聞記事で使われている言葉を分析したものもあった。

ビンゴはアンコンシャス・バイアスを気付かせるもので、レゴは組織における人材の多様性を客観的に俯瞰するものだ。いずれもびっくりするような取り組みである。

また言語学からの研究は、職業に関する単語が、どのような言葉と結びついて使われているかを、「ベクトル距離」という手法を使い、ビッグデータ解析を行ったものである。たとえば90年代初頭は、「秘書」と「彼女」や「エンジニア」と「彼」など、特定の職業と性別との距離が明らかに近いとみられる表現が多く存在したのに、25年たった現在では、そのような結びつきがほとんど見られなくなった、ということを実証して見せた。

このような変遷は、「ポリティカル・コレクトネス(一種の建前)」が確立した結果、記事を書く人間が言葉使いを気を付けるようになったことを示しているのか、それとも、実態として職業と性別のつながりが薄くなったことを示しているのか、という質問が出た。もっともな質問だが、研究自体からは答えが導けそうにはない。このデータ分析は、より多くの新たな質問と研究テーマを呼び起こすようだ。

日本の経営系学会で、同じようなテーマが成立するか

こういうテーマだけでは、日本の経営系学会で2日はおろか1日ももたないだろうなあ。上でふれたように、昨年(2018年3月)立教大学でダイバーシティに特化した1日半のミニ学会をやったが、発表のほとんどは、伝統的な組織行動論や人事管理論、異文化マネジメント論からの研究で、倫理や社会正義を正面から取り上げた研究は無かった。まだ日本では、企業経営者や人事のダイバーシティ担当者に対して、こういう話をやっても、引かれるのでしょう。

日本の大学では、こういう分野は、フェミニズム、マルクス主義社会学、正義と人権をめぐる法学や倫理学、あたりではちゃんと研究されているテーマだろう。しかし、経営者がそこから積極的に学ぼうという動きはなさそうだし、経営学系の学会で真正面から取り上げるところも、あまりないのではないか。

彼我の関心の違いの背景はなにか

組織にとって、多様性を取り込むことにメリットがあるのか、コストが増えるのか、といった点をめぐる議論は、ほぼなかった。

唯一の例外は、アメリカ企業において、LGBTグループを尊重する企業とそれ以外で、特許取得率に示される技術開発力(イノベーションの代理変数)に違いがあるかどうか、についての実証研究があったぐらいだ。発表を聞いているうちに、ダイバーシティ・マネージメントをやると業績が上がるのか、という質問自体が成立しない状況を改めて考えざるを得なかった。


多様性を受け入れない企業自体、まともな経営をしていない企業とみなされるのだろう。その上で、対象の範囲や、インクルージョンの稚拙などが、経営上の課題となっているようだ。

気づいたことが2つある

当方が、50年前のアメリカでは、労働者を差別することが、資源配分の効率性を上げるか下げるかという議論が、公民権運動の高まりのなかで起こった、その中で、人種や性別をもとに労働者を差別(区別)すると、結果的に人件費の高止まりと資源配分のゆがみをおこすことが実証されてきた、ということを指摘すると、何ですかそれ、という顔をする研究者が多かった。

たんに彼らの分野が経済学と違う、というだけのことなのか。

欧州でも経済学(とくに組織の経済学~かつての労働経済学)の学会では、ちがう関心を持ち、違う議論が行われているのか。しかし経営学を学ぶ人間が集まって、経済的な効率の観点がまったくなかったのは、やはりちょっとびっくりしました。

発表を聞いているうちに、2つのことを思った。1つは出稼ぎ労働者の問題、もう1つは、環境問題である。

出稼ぎ労働者とインクルージョン

出稼ぎ労働者というと、ドイツが有名だ。しかしデンマークでも、60年代から70年代に、トルコ人を中心とした出稼ぎ労働者を多数受け入れたという。

日本と同様、ヨーロッパでも当時は高度経済成長期で、労働の供給がひっ迫していた。背に腹は代えられぬと、単純なブルーカラーの仕事をしてもらうため、トルコなどから労働者を受け入れたのだ。

なぜそれが、欧州のダイバーシティをめぐる問題意識と関係しているか。

それは、当時、ダイバーシティ・マネジメントという考えがないまま、出稼ぎ労働者を迎え入れたことをめぐる反省であろう。今回の学会で、そのこと自体をとりあげた研究はなかったが、さまざまな場面で、この問題が亡霊のように出てきた。

当時の欧州では、これら出稼ぎ労働者を、組織における多様な人材として遇するという発想が全くなかったようだ。企業としても社会としても、彼らをインクルージョンするという考えが皆無だったのだ。

「出稼ぎ労働者(Guest Workerという用語をつかっていた)」という言葉が示すように、彼らは腰かけでいずれ母国に戻る労働者、とみなしていた。そして、そのような無策のつけを、デンマーク社会は今になって払っている。そのコストとは、犯罪率の上昇や社会不安、社会的分断などである。それは、値段をつけようにもつけられないほど高い、と考えているようだ。

このような後悔の念があって、企業も社会も、多様な人材を受容することは当然と考えるようになったのだろうか。これは公共経済学をつかうと、将来発生する可能性のある負の外部経済を、予防的な費用の分担を行うことで防ごう、という話である。

2019年4月に改正入管法が施行された。日本でも本格的に海外からの労働者を受け入れるようになるという。ダイバーシティとインクルージョンの観点からの議論も必要になってくるだろう。

環境問題とダイバーシティマネジメント

もう1つは、環境問題とのパラレルである。個々の企業が、環境問題にどこまで責任をもつべきか、そのためにかかるコストをどこまで負担すべきか、という問題と、ダイバーシティ・マネジメントをめぐる企業のコスト負担との間に、似た構造があるようだ。

企業の生産活動や製品の提供する価値に負の外部経済が含まれる場合、だれが環境問題の被害者の補償をするか、という問題がおこる。企業は、直接の因果関係が見えない限り、知らんふりをして、費用を負担せずにすませられるからである。

環境問題をめぐっては、日本を含む先進各国で、長い時間をかけて、具体的な法規制と社会規範の変化の2つが起こってきた。その結果、個別企業が、狭い因果関係のあるなしにかかわらず、騒音や排煙、廃液などの処理にかかる費用を負担することが、先進国ではあたりまえになった。他方、法規制も社会規範もまだ整っていない途上国では、企業はそのような費用負担を「余計なコスト」とみなしている。

CBSでの発表を聞いていて、そのことを思い出したのは、ひょっとしたらデンマークや欧州の企業経営では、環境問題と同様に、人材の多様性を認め、それを受け入れて経営することが、法的にも社会規範上も、前提として成立しているのではないだろうか、と考えたからである。

もしそうだとしたら、環境問題の場合と逆に、おそらくは組織における多様性は正の外部経済を持っていて、各企業が個別にそれを回収することは困難だが、社会全体として、その恩恵にあずかることができる、という話なのだろうか。

これら2つの点は、いままで考えたこともなかった内容だ。これからすこしゆっくりと考えてみたいと思う。

2019年5月7日火曜日

デンマークで若いリーダーが登用されやすいのはなぜか

CBSに新しい学長が就任した

今朝(2019年5月3日)、大学へ向かって歩いていたら、ひょうが降ってきた。気温は8度でした。コペンハーゲンの5月は寒かった。歩きながら、昨日の午前中、学部で新学長を迎えてミーティングをやったのを思い出していた。

昨年の暮れ、任期を一年以上残して辞任を表明したPer Holten-Andersenの後任探しの結果、若干44歳(!)で南デンマーク大学の経済学教授で副学長のNikolaj Malchow-Møllerを新学長として迎えることが決まった。

この3月に着任してから、11ある学部とミーティングを行ってきた。その最後に、当方がお世話になっているEGB学部(Department of International Economics, Government & Business)にやってきたのだ。略歴を見ると、労働経済学の研究者としても一流の業績を上げている。

90分のミーティングでは、もっぱら聞き役に徹していた。学部長のJensが学部全体の話をしたあと、Ardhana、Hotho、Nis、Njornの、ベテランから新人まで4人の研究者がそれぞれの研究を、Carolineが産学連携や外部資金を、Eddyが教育を紹介し、何がうまくいっていて何が難しいか、大学にどのようなサポートを期待するか、などを話した。そして短いQ&Aをやった。学部としてのポジショニングもでき、研究内容の多様性やクオリティもアピールできるいい中身だったと思う。それについてはまた別の機会にまとめるとして、この国(や北欧諸国)で「組織の長」の選抜とその背景の考えが、日本のそれとかなり違うことを痛感したので、それを書いておきたい。

デンマークの組織は、若い人材をトップに登用しているのか

デンマークの主要な企業では、CEOは何歳のときに就任したか。時価総額の上位企業(いわゆるラージキャップ企業)をざっと見ただけでも、若いことがわかる。

  • ノボノルディスク(Novonordisk:売上約2兆円の医薬品会社で同国の上場企業として最も時価総額が高い)~Jørgensen(47歳)
  • マースク(Maersk Line:世界最大の海運会社)~Skou(48歳)
  • ウェステ(Ørsted:同国最大のエネルギー会社、旧Dong)~Poulsen(45歳)
  • コロプラス(Coloplast:世界的な医療器具メーカー)~Villumsen(47歳)
  • DSV(同国最大の運輸業)~Andersen(42歳)

ラージキャップ企業ではないが、北欧3国政府の共同出資で発足したスカンジナビア航空(Scandinavian Airlines)の現CEO、Gustafsonがその任についたのは47歳、非上場だが同国最大のIT企業KMDの現CEOに、デンマークで最も有名な女性経営者の一人であるBernekeが就任したのは45歳だった。

表面的には、アメリカ企業のCEOの登用とあまり変わらないように見える。

もちろん例外もある。時価総額上位6位の世界的ビール会社カールスベア(Carlsberg)のHartは57歳で、同7位の風力発電メーカー・ベスタス(Vestas)のRunevadは53歳で、それぞれCEOに就任した。とはいえ前者はオランダの多国籍企業の社長を、後者はスウェーデンの多国籍企業の役員を、ヘッドハントしてきたものだ。いずれもそれぞれ前職で、若いときに企業幹部に登用されている。

デンマークを始めとした北欧企業の組織経営の面白さについては、別のところで改めてまとめるとして、このように、デンマークで組織が若いリーダーを選ぶのはなぜか。デンマーク企業のトップの登用のあり方は、アメリカ企業のそれと似ているのか。

経営者は、何をめざすのか

チャンドラー(1977)は、経営者の役割を「見える手(Visible Hand)」と呼んだ。アダム・スミスが、市場を「神の見えざる手」によって資源の最適配分が行われるとしたことに対比した名言だ。組織のトップは、人知によって稀少な経営資源の采配を行い、価値を生み出し、利益をあげるのだ。

経営者による采配の仕方は、世界中で同じというわけではない。

ホール&ソスキス(2001)や青木昌彦(2001)の比較制度理論を使えば、ざっくり言って日本企業の経営の特徴は「ステイクホルダー型経営」だ。これはアメリカ企業に代表される「ストックホルダー型経営」と対極に位置する。

ストックホルダー型経営では、株主の求める利益の最大化が、経営の最も重要な目標になる。その目標に沿って、組織を采配し、価値を提供する。それに応えられない経営者は、すぐクビだ。

それに対し、日本企業のようなステイクホルダー型経営では、株主だけでなく、社員や顧客、取引先や銀行、地域社会など、さまざまなステイクホルダーの求めに応えることが重要となる。利益があまりあがらなくても、雇用を守り、取引先との関係を継続し、顧客の期待に応えられる経営者は、優れた経営者なのだ。

だから日本の経営者には、通常の業務遂行能力に加え、様々なステイクホルダーとのコミュニケーションや、ステイクホルダー間の調整に長けた人物が求められる。

そのような能力を、将来、卓越して発揮してくれそうな人物を探し、互いに競わせながら、時間をかけて育成する。そうやって、候補者を徐々に絞り込む。そのプロセスは社内で一目瞭然なので、ある日突然、知らない人間がトップになるというサプライズは起こらない。衆目の一致する候補者が残っていき、その中から、最終的にトップが選ばれる。

トップに就任する年齢も、そういうわけで高くなる。さまざまな部門を経験し、業績をあげ、社内の人脈に長け、バランス感覚があり、すぐれた意思決定ができる人材は、即席で育成できるものではないからだ。

もちろん未だに多くの日本企業では、現社長が次期社長を指名する。だから、現社長のえり好みや院政の可能性、といった要素の入る余地は少なくない。

デンマークの企業経営は、日本型かアメリカ型か

デンマーク企業も「ステイクホルダー型経営」と言われている。

CEOは会社の業務執行のトップと位置付けられ、その監督を行う取締役会のメンバーにはならず、監督と指示を受ける。取締役会のメンバーは、株主の利害代表に加え、会社法の定める従業員代表(最低2名)や、同国のガバナンスコードの求める、広く社会の利害を代表できるメンバーで構成される。

さらに興味深いのは、株主構成だ。主要なデンマーク企業は、「産業財団(Industrial Foundation)」と呼ばれる大株主によって、実質的に保有されている。CBSのトムセンらの研究(2013)によれば、上場企業の6割近くがそうだという。加えてレゴ(Lego)のような、未だに創業一族の所有する非上場の大企業もある。

産業財団のほとんどが、創業者の保有する株を財団に寄付することで始まった。一見すると創業家の税金対策のように見える。しかし税法と財団設置法のもと、財団は公共の利益の増進が設立目的として義務付けられており、創業者一族だけの狭い利益を追求しようとしたら、その存続が許されないようになっている。

そのような制度のもと、これらの財団が、アメリカの株主行動にみられる短期的な利益最大化とは異なり、長期的な企業価値、ならびに、社会的な責任、を強く企業経営に求める極めてユニークな株主行動をとっていることが、トムセンらの最近の研究(2018)から実証的に示された。

デンマークの組織のトップに求められる資質はなにか

デンマークで、企業がステイクホルダー型経営をやっているのであれば、そのトップも、日本企業のトップと同様に、長い年月をかけ、社内のさまざまな部門を経験し、社内外のステイクホルダーとともに仕事をし、ノウハウを蓄積する必要はないのだろか。就任時の年齢も、高くなってしまうのではないか。

この点について、いろんな企業を回り、話を聞かせてもらった。それをざっと要約すると、大きく3つの点があるようだ。

1つは、さまざまなステイクホルダーとのコミュニケーションや調整には、知恵だけでなく、体力も気力も必要というものだ。この国の企業のトップを務めるのは、これらすべてがそろった、ちょっとしたスーパーマン、スーパーウーマンでなければならい。若くて優秀な人間を探しているのだという。

2つめは、柔軟性、リスク耐性、機敏さ、先を見る目である。どの企業を訪れても枕詞のように、「デンマークは小さな国だから」という話で始まる。グローバルな競争の海のなかで、小舟のように翻弄されているのだという。

その舵取りには、先を見る目が必須である。そして柔軟に機敏に、変革を恐れず、リスクをとって、新しいことに挑戦しなくてはならない。そのようなことを、よりうまくできる人材を探していたら、たまたま年齢が比較的若いCEOに託すことが多くなったのではないか、というのだ。

3つ目が、組織でリーダーシップを発揮するには、ある程度の期間が必要で、歳を取ってからでは難しいのでは、というものだ。

日本の上場企業の社長の在任期間は平均すると7年強である。アメリカやデンマークに比べて2年ちょっとしか、短くない。しかし日本の上場企業の半分は、何らかの同族会社であり、その社長の平均在任期間は10数年と長い。これらを除くと4年未満になる。同族企業ではない日本の大企業の多くでは、整然と順繰りに、社長を2期4年やって交代することが多い。

この話をデンマークですると、みなびっくりする。大胆な決断をし、新しい方向へ企業を方向付けし、組織を改革し、結果が見え始めるのに、4年では短すぎるでしょう、というのだ。

こちらでは、まずは6~7年、腰を据えて経営をしてもらうつもりで、CEOを探す。それで順調であれば、さらにあと数年、やってもらう。そういう意味で、40代の中ごろから後半というのが、一つの目安になるようだ。

デンマーク人も、経験の重要性を否定しない。だが、経験は少なくとも、能力にも体力や気力にも満ちている人材と、経験は豊富で能力もあるが、体力や気力は若い人ほどではない人材がいたら、前者のほうがいいでしょう、と言われた。すぐれた能力で経験不足は補えるが、多くの経験があるからと言って、それで体力や気力までは補えないではないか。

歳をとったら何をするか

別の企業では、経験は豊富だが、体力や気力がピークアウトした人材は、若いCEOをサポートする側に回ればいいではないか、と言われた。そのあと、「私のようにね」と付け加えた。

「えっ」と聞き返すと、彼はなんと前CEOで、若くて優秀な現CEOの就任とともに、常務執行役になり、現CEOの部下として彼を支えているのだとう。

前CEOが、新CEOの部下になるというのは、日本では聞いたことがない。降格で、報酬も下がるので、屈辱的なのではないか。あるいはCEO退任後も同じ組織に残る、という意味なら、日本風には、さしずめ院政を敷いて実質的なトップに居座るという話だろう。ガバナンス上、老害が問題になるのではないか。そんな心配はないのだろうかと、探りを入れてみた。

それに対しては、屈辱的と思うなら、引き受けないだろうといわれた。自分は報酬が下がったが、CEOのときの大変さを考えたら、全然問題ないとも、この国は累進課税なので手取りはあまり変わらなかったかな、とも。(注:ただし最後の点は、たぶんジョークのつもりでしょう。この国の累進所得税では、中堅企業のマネジャー以上はみな、最高税率を払っているはずです。)

また、現CEOが自分を使えないと思ったら、首を切ればよい、それができずに経営上の問題が起こり始めたら、経営を監督する取締役会が現CEOに質せばよい、とも言われた。ガバナンスの教科書に書いてある通りのことだが、ほんとうにできているのだろうか。現CEOが前CEOに遠慮したり、恩やしがらみを感じたりすることがあるのではないか。

他方で、ホフステッドらの異文化経営の研究であきらかにされたことの1つに、デンマークは世界でも有数の、パワー・ディスタンス(いわゆる上下関係、権力関係)の低い社会だということを思い出す。これによれば、日本にみられる長幼の序も先輩後輩のしがらみも、ほとんどないことになる。

上下関係や権力関係といった観点から組織を考える必要がないということは、CEOという仕事は、組織ピラミッドの頂点に君臨するポジションではなく、さまざまな仕事を分業で行うなかでの、単なる1つの役割だ、ということなのかもしれない。ここらへんは、もう少し、調べてみる価値があるだろう。

中堅以下の企業では、同じ組織の中で、前CEOが新CEOの部下になることは、それほど珍しいことでもない。とはいえさすがに、デンマークを代表する大企業で、前CEOが新CEOの部下になる、というケースはみつけられなかった。多くの場合、大企業でCEOを務めあげた後は、別の企業(それもデンマーク企業とは限らない)のCEOとして招かれている。業務執行側から、別の企業の監督側のポジションである取締役や、産業財団のボードに招かれることもあるようだ。

日本の企業経営に参考になるのか

つくづく、ところ変われば品変わるだ、と思わされる。では、このような、デンマーク企業の経営トップの選抜の在り方は、日本企業の経営に、なんらかでも参考になるのだろうか。

アメリカ企業の経営よりは、参考になるのではないか。

デンマークも日本も、ステイクホルダー型の経営という点で、似ているからだ。その意味で、この20年間、日本の多くの企業でアメリカ型のガバナンスが取り入れられてきたが、それとは異なるデンマーク型のガバナンスのほうが、日本企業には共感でき、取り入れられるところもあるのではないか。

かつてはデンマークの企業でも、日本企業のように、時間をかけて経営トップの候補者を内部で育成するやり方をとっているところも多かったという。しかし、徒弟制度のような時間のかかる育成では、グローバル競争の荒波のなかでデンマーク企業が生き残っていくのは難しい、背に腹は代えられないと、登用のあり方を変えてきたという。

経営者に必要な資質を、企業特殊なものとそれ以外に分け、暗黙知としてしか伝えられない部分がどれほどあるのかを厳密に見極めていったに違いない。同じことは、日本企業でもできないはずはなかろう。そこを乗り越えられれば、以外と日本企業でも、もっと若い人材を登用できるようになるのではないか。

他方で、上下関係(パワー・ディスタンス)に見られるような、文化や社会規範に根差した彼我の違いもある。若い幹部を年配の部下が受け入れることへの抵抗は、日本には強いかもしれない。

しかしこれだって、多様性を尊重するという社会規範を育み、労働市場をもう少し流動化して、多様な能力を認め、年齢に基づく区別や差別を減らす(すなわち年功の要素を減らすとともに、定年も廃止するなど)ことができれば、変わっていくことができるのではないかとも考える。

2019年4月6日土曜日

ゼミ合宿で、中央葡萄酒に行ってきた

今年のゼミ合宿は気の毒なことに池袋でやったけれど、ここ数年、春休み中に3年ゼミのゼミ合宿を、八ヶ岳の山麓にある立教の姉妹施設、キープ自然学校で行っていた。昨年(2018年)は往路、山梨県の中央葡萄酒を訪問し、同社の三澤茂計社長にお話を伺って、その話をネタに合宿をした。夜は中央葡萄酒で買ったワインをしこたま飲んで議論を続けた。
(中央葡萄酒HP)

中央葡萄酒を訪問した理由は、教員の個人的な好みだろうと言われるのだろうが、わがゼミらしいテーマで勉強ができたと思っている。

トヨタ自動車と中央葡萄酒の似ているところはなにか

このテーマを考えてもらいたくて、中央葡萄酒に行った。質問が、結構、意表をついているでしょう。中央葡萄酒のことは知らなかったのだが、2015年の秋に、東洋経済の記事「女性醸造家の渾身のワインに世界が驚嘆した」を読んで興味を持った。ゼミ生にも、参考資料として読んでもらった。ほんとうに世界が驚嘆し始めている記事も読んだ。

日本の自動車産業は、世界的によく知られているが、ワイン産業は、ほぼ無名だ。なぜなのか。ワインが日本古来のものじゃないからというのなら、自動車だって似たようなものである。自動車はドイツで発明され、アメリカで広がった。ワイン発祥の地はグルジア(ジョージア)らしい。しかし日本の自動車産業は世界的に高い競争力を持つようになり、一方で、ワイン産業はグローバルな競争力がない。

この記事によると、近年、一部で既成概念を打ち破るような、値段もそこそこで高品質のワイン作りに成功し、海外の市場でも評価され始めているという。競争力が上がってきているというのだ。どうしてそんなことができたのか、と思って記事を読み始めて、すぐにトヨタ自動車のグローバルな競争力のつけ方と似たところがあると思った。

第一に、優れた商品の構想力。トヨタが国際競争力をつけるのは、70年代のオイルショック後に、小型車を、価格が安く燃費もよい2台目のクルマとして、アメリカ市場でポジショニングしたころからだ。中央葡萄酒も、世界中で売れ筋のシャルドネとかソーベニヨン・ブランとかいった、既存の競争の激しいマーケットに後発として入っていくのではなく、世界でも山梨にしかない固有のブドウの品種で、それまでにない辛口の白ワインを作った。いわゆる差別化されたワインの誕生である。

次に、それを作り出すための高い技術力。そのための汗と涙と科学的、合理的なアプローチの話が、記事に詰まっていた。

優れた商品に必要な材料やパーツは誰が作ってくれるのか

そしてブドウ栽培の内部化。ぶどう農家は、高く売れる巨峰を中心に栽培していて、山梨固有のブドウ「甲州」種の生産はじり貧だった。しかも、甲州種はそのままでは、いいワインができない。甲州種を優れたワイン用に改良するのは、リスクが大きいわりには、リターンの少ない賭けと思われたに違いない。

結局、まずは自社で栽培し、品種改良を行い、何度も失敗しながら糖度をたかめ、やっと高品質のブドウが栽培できるようになる。そして、これから安定的な量産のため、自社の畑を広げられるのか(しかし勝沼に、いいブドウが採れる土地は余ってはいない)、あるいは、どう農家に協力してもらって収穫量を増やせるか、という悩める段階に来ている。

これはトヨタ自動車のサプライチェーンの進化と似ている。今では信じがたいことだが、戦後しばらく、日本の自動車メーカーは、競争力の低い、あまり品質の高くない自動車を作っていた。高品質の自動車を作るためには、高品質の部品が必要だが、だれでも簡単につくれるものではない。技術力を高めたり、特殊な部品を作れる特殊な機械を導入したりすることが必要だが、それには投資をしなくてはならない。しかし、それでより多くのリターンが得られるかどうかわからないのなら、トヨタの要求にこたえるためにリスクをとって投資をするまでもなく、現状のまま、そこそこの部品をトヨタにも日産にも売っていた方が儲かる。ゲーム理論で言う、非協力ナッシュ均衡の状況だ。

トヨタはそのような状況を抜け出すべく、競争力に直結する中核部品を作るために技術を蓄積し、自らで品質の高い部品を内製できるようになる。また、信頼できる系列部品メーカーを育て、共同で開発したり、任せたりもする。そのような努力のなかで、独特のサプライチェーンを作り上げてきたのだ。

そういうことを、ゼミ生たちが話を聞く中から見つけ出してくれないかと、同社訪問を思い立った。そしたらなんと、社長自らが対応してくださることになった。記事に出てくる「女性醸造家」の御父上である。

三澤茂計社長のお話で興味深かったのは、中央葡萄酒は、創業95年の古い歴史を持つ、勝沼でも老舗のワイナリーだが、世界の中では無名なこと、ご自身は、東京工業大学を出て三菱商事に入り、エンジニアのバックグラウンドを持った商社マンとして世界で活躍するはずが、途中で4代目として家業を手伝うことになったこと、そこで、世界で評価される優れたワインを作り、それを世界で売っていくことを戦略的に考えてこられたこと、である。

良いものを作れば、黙っていても売れるのか

お嬢さん(三澤彩奈氏)は、大学を卒業後、ボルドー大学でフランス伝統の醸造技術を勉強する。そのあと、カリフォルニア大学で、近代的な醸造技術も学ぶ。そして各地のブドウ畑やワイナリーで経験を積み、着々と技術力をつける。それをもってブドウの品種改良に取り組み、すこしづつ品質の高いワインを作れるようになる。この辺りは、記事に良く描かれている。

このような、作りて側の努力と呼応して、御父上(三澤茂計社長)がロンドンの批評家に的を絞って売る努力を展開していった、という記事には書かれていない話を、当日直接、三澤茂計社長から伺った。さすが元商社マン。単にいい商品を作れば、世界は評価してくれるなんて甘い話ではないこと、商品が市場に受け入れられるには、戦略的なマーケティングが重要なことを、よくご存じだと改めて思い知る。

イギリスは、自国に大きなワイン醸造業のない唯一のワイン消費大国である。フランスやイタリアやドイツのような、自国のワインへのひいき目も、産業を守る必要性もない。フェアな評価をしてくれる可能性が大きく、しかも、英語で発信されるので、世界の市場に影響力もある。だから限られた資源を集中的にロンドンに投下し、だれも知らない山梨のワインをイギリス人の批評家に評価してもらう努力を続けた、という話である。

その延長に、ロンドンのコンクールでの受賞があったのだ。やはり作る努力だけではなく、売る努力も必要で、どちらが欠けても成功はおぼつかない。ゼミ生には、日本の製造業の国際競争力の真の源泉は、作る側の、製造をめぐる能力構築の努力の中にある、という、一世を風靡した有名な本も読んでもらった。しかし、そういう意見が日本でまかり通ること自体、日本人のどこかに、プロダクトアウトへのバイアスがあるのかもしれない。

当日のお話には、最後にもう1つ、びっくりするオチがついていた。うちの娘は卒業生です、と仰ったのだ。日本のワイン産業の未来を拓く「女性醸造家」が、立教大学のOGだったという話を聞いて驚き、なぜだか誇らしく、親近感がわく。世界は狭く、合宿の夜にゼミ生たちと飲んだワインは美味かった。

2019年2月27日水曜日

コペンハーゲンのパンダ

2019年4月、コペンハーゲン動物園にパンダが来る。


あと1か月少しのことだ。現在、建設中の動物園のパンダ舎は、CBSの当方の研究室から、直線距離で5~600メートルで、目と鼻の先である。

ちなみにこの動物園は、2014年にキリンを殺処分し解体し、子供たちにも公開した。同じ園内のライオンの餌にしたことで、世界的な物議をかもした。ググるといろんな意見がでてくるようだが、デンマークの誇る「森の幼稚園」の延長のような話だったのかもしれない。

(出典:Designboom,  3 March 2017)

そのような、ある種のデンマークらしい合理的な考えの動物園に、パンダがやってくる。中国を専門とするCBSの研究者が、当地のテレビや新聞の取材を受けるということで、当方も余計なお世話で、日本のパンダの状況について調べ、参考資料作りを手伝った。これまで見に行ったこともなかったのだが、日本には、1972年からパンダがいる。現在、全国3つの動物園で、あわせて10頭(上野に3頭神戸に1頭和歌山に6頭)にのぼるパンダが飼育されている。中国以外では、もっとも多くのパンダのいる国のようである。

ヨーロッパで最初のパンダはベルリン動物園(ドイツ:1980)だったそうである。しばらくの間はヨーロッパで唯一、パンダの見られる動物園だったようだが、21世紀に入り、ウイーン(オーストリア:2003)、マドリッド(スペイン:2007)、エジンバラ(イギリス:2011)、サンテニャン・シュルシェール(フランス:2012)、ブリュージュレット(ベルギー:2014)、レーネン(オランダ:2015)、ェアフタェリ(フィンランド:2018)と続く。そして今年、コペンハーゲン(デンマーク:2019)である。

ヨーロッパでは、21世紀に入るまで、ベルリン以外ではパンダがみられなかったというのには、少し驚いた。欧州最初の国がドイツというのは、なんとなくそうだろうなという感もある。しかし次が20年以上たってオーストリアというのも、オーストリアの次がスペインというのも、やや不思議な気がする。最初の3か国は、首都の動物園にパンダが迎えられたが、その次の4か国はそうではなく、やっと今回、首都の動物園がホストとなるのも、不思議といえば不思議である。

パンダ外交


知らなかったといえば、世界中でパンダの所有権は中国にあり、各国は利用料を払って貸与されているそうだ。海外に貸し出されたパンダが生んだ子供についても、所有権は中国に残り、中国の求めに応じて返還しなくてはならないという。こういうところで、所有権の管理がしっかりしているのは興味深い。「パンダ外交」という言葉があるように、いつ、どこの国に、パンダが貸し出されるかは、極めて高度な政治的判断なのだ。

このたび、デンマークがEUで8番目のパンダのホストとなって、めでたいではないかと尋ねてみると、デンマーク内の反応はすこし複雑だと話してくれた。中国がデンマークをEUのなかで重要な国として認めていると手放しで喜んでいるデンマーク人はあまりおらず、そもそも、そのように評価されていること自体がいいことなのかどうかわからない、という意見があるという。パンダのデンマーク到来が最初に報道されたとき(2017)も、デンマーク防衛大学のカミラ・ソレンセン氏は(デンマークはノルウエーなどと異なり)「人権問題などで、あまり中国に対して厳しいことを言わなかったことが評価されたのだろう」という、かなり皮肉なコメントを寄せていた。

いまでも、中国に恭順の意を表し続けないと、パンダを返せと言われるかもしれない、これまでのように、中国に対して是々非々の発言はできなくなるかもしれない、といった意見も、以外とよくでてくるそうだ。超豪華なパンダ舎が、象舎をとり壊して作られること、予算の限られているコペンハーゲン動物園に代わって、Danfoss, Lundbeck, Vestas, VELUXなどの中国との取り引きの深いデンマークの民間企業がパンダ舎の建設費用を肩代わりしたこと、しかし動物園もスポンサー各社も、金額を含めた詳細を大きく公表していないこと、などについても、賛否両論なのだという。

(パンダ舎建設で取り壊された象舎

日経ニューステレコンなどで新聞報道を調べた範囲では、日本ではそのような「負のパンダ外交」の話は聞いたことがない、と返事をした。パンダが上野に来て半世紀近くたつが、その間、日中関係はアップダウンしていた。しかしそのたびに日本にいるパンダが外交問題とリンクすることはなかったと思う、まして2010年代前半、尖閣問題で日中関係が特に悪化した際ですら、日本の動物園のパンダの返還が可能性として話題に上がったことはなかったようだ、と伝えた。

デンマーク人て、意外と素直じゃない一面も持っている、という話なのだろうか。それとも、トランプ政権の中国バッシングのとばっちりだろうか。そうはいっても、コペンハーゲン動物園のパンダをいちばん喜ぶのはデンマークの子供たちのはずで、「パンダ外交の負の影響」などという大人の話は関係ないのだろう。その点で、中国のパンダ外交は、次の世代への影響を考えた、息の長い話なのかもしれない。

2019年2月23日土曜日

エアバス

ハンブルグのエアバス社を訪問してきた。

エルベ川を埋め立てて造った巨大な工場で、ツールーズの本社に次ぐ拠点だそうだ。1週間少し前に、A380の製造を中止することが発表されたばかりのタイミングだった。忘れないうちに、ノートを書きおこしておくことにします。

エアバスは、ボーイングと世界市場を二分する巨大な航空機メーカーである。ANAやLCC各社がA320という双発機を飛ばしているので、日本人にもなじみが深い。海外旅行をするとエアバス製の大型機だったりする。世界最大の旅客機は、かつてはアメリカ・ボーイング社の「ジャンボ」だったが、現在はエアバス製のA380だ。売り上げは約8.2兆円で、7割が民間機、2割が軍需・宇宙、1割がヘリコプターだそうだ。ヘリコプター事業では、世界最大のメーカーだという。

1.もともとエアバスは、会社ではなかった


エアバスは、1960年代にアメリカでダグラス社がDC10、ロッキード社がL1011トライスターという大型旅客機を相次いで開発した時期に生まれた「プロジェクト」である。イギリス、フランス、ドイツの航空機メーカーが、それまでのように、各社個別にダグラスやロッキードに対抗した飛行機を作っても、競争に勝てなさそうだということで、EEC(EUの前身)からの産業政策の支援を受け、補助金をもらい、共同で「バスのように手軽に乗れる300人乗りの飛行機」(だからエアバスで、A300という名前になったと聞いて絶句した)を作るプロジェクトを立ち上げたことにルーツを持つ。

つまりボーイングやトヨタのような1つのメーカーが開発設計と組み立てに責任を持ち、そのもとで部品やパーツを各社に発注する、という通常の企業のモノづくりではない。3社が共同で開発設計を行った後、機体を3つの部分に分割し、それぞれを各社が分担し、最後はフランスとドイツで組み立てていた。

その後も2000年までは、エアバスは法人組織ですらなく、イギリスが抜けた後、フランスのアエロスパシアルと、ドイツのダイムラー、スペインのCASAという、3国の独立した企業の共同事業の呼び名であり、商品名だった。2000年になって3社を1つの企業に統合し、オランダで登記し、フランスとドイツで上場する民間企業となった。今でもフランスとドイツの政府がそれぞれ11%、スペイン政府が4%、株式を保有している。

やはり航空機産業というのは、普通の民間企業ではありえないのかと思う。わが三菱重工のことを、ちらっと思い出したりもする。そのうえで、複雑な政策介入やガバナンスの問題を横に置いても、製造業のマネジメントという観点で、なお複雑な組織で、よくまわっていると驚嘆してしまう。

2.技術集約的で資産特殊な製造業でも、摺り合わせは必須ではないかもしれない


航空機の製造は、究極の摺り合わせが必要なのではないか?それを、全体を采配する支配的な企業が存在せず、各国にまたがる複数の企業が、対等に協力して行えるのか?

これは製品アーキテクチャと生産管理の問題であり、調達とバリューチェーンのマネジメントの問題でもあり、企業と市場の境界と、アライアンスやジョイントベンチャーの問題でもある。A380の部品点数は4百万点、内製率は教えてくれなかったが、30か国以上の1,500社から調達しているという。日本の製造業を代表するトヨタの自動車の部品点数が3万点、内製率が4割を切っていて、ティア2(2次下請け)までの調達先が約340社(協豊会と栄豊回の会員総数)と比べても、いかに巨大で複雑な、資産特殊性の極みのプロジェクトかがわかる。

かつて三菱重工のMRJプロジェクトを調べたとき、経済産業省からも三菱重工からも、航空機産業は自動車産業以上にすり合わせが必要なので、我々は競争優位をもてるはずだという自信が漂っていたように覚えている。しかしそれより30数年以上も前に、エアバスは、英独仏で、かなりモジュラー化された共同プロジェクトとしてA300を作っていたことになる。今でこそエアバスは一つの会社だが、かつては国を背負う各国企業が互いに協調とけん制を繰り返していたに違いない。

3.エアバスのモジュール化は、効率性のためではない


機体のどの部分をどの国が担当するかを、どうやって決めたのか。それぞれの国で、互いに得意な分野が異なっており、それをお互いに認め合うことで、特化と分業がスムーズにできあがったのか。逆に、当初は得意な分野ではないが、新たにノウハウを蓄積したい分野があって、政策的にその分野への進出を希望したら、そのような分野を担当できたのだろうか。パートナーである各国は、海のものとも山のものともわからない、そのような新規参入を容認できるのか。

また分担を決め、実際に開発や製造に着手したあとは、それぞれの部分が当初の想定通りに出来上がり、それを組み合わせることで、スムーズに飛行機が完成できたということなのか。一部の国で開発や製造が進まないと、飛行機の完成が遅れるのではないか。出来上がったとして、各国ごとに担当部分の完成度が違っていたらどうなるのか。一部の分担先が予算を超過してしまったらどうか。責任のなすり合いは起こらないのか。

いろいろと話を聞いていると、利害が対立することが多く、大変だったらしい、ということまではわかった。しかし企業秘密もあるのだろうし、20年以上前の話でもあるのだろうが、いまいち具体的な話は聞けなかったし、詳しいことはわからなかった。

では、一つの企業体になった現在はどうか。

A380は、主要な部分を4つの国で作っている。胴体の前半部はフランスのナント、後ろ半分と垂直尾翼はドイツのハンブルグ、主翼はイギリス、水平尾翼はスペインのプエルトリアルで、作っているそうだ。それをフランスのトゥールーズに集めて組みたて、出来上がった機体をハンブルグに飛ばし、ここで航空会社の仕様にあわせて塗装し、引き渡すという。ハンブルグ工場では、ちょうどANA仕様に塗装されたA380が1機、屋外に駐機され、別の1機が工場内で塗装中だった。

(出典:ana.co.jp)

いくらヨーロッパは隣りあわせといっても、巨大な胴体や翼をあちこちに移動するのは大変に違いない。ハンブルグ工場は、直接、大きな船が接岸できるが、ツールーズは内陸にある。輸送のための専用船や輸送機を持っているだけでなく、いくつかの場所で特別な道路整備も行われたそうだ。余計な物流のために、時間も費用もかなりかかっている。

(出典:Airbus-on-board


A380だから特別だというわけではない。ベストセラーのA330も、その前のA300も、似たように各国で分担して作ってきたという。ライバルのボーイングは、シアトル郊外の工場でおもな部位を作り、同じ場所で組み立てている。東レを含む素材や部品メーカーも、近くに進出している。ヨーロッパ各国では、分散して製造することで特化と分業が実現でき、余計な物流のコストを上回るメリットが享受できるというのか。それとも無駄だと知りつつ、同社の特殊な事情で、このようなことを続けているのだろうか。

(出典:ウイキコモンズ 
~同社で見せてもらったパワポとほぼ同じものがありました)

4.工場の立地は、経済合理性だけでは決まらない


ちなみにA320については、ここまで、各国で持ちまわる製造は行っていなかった。基本はアメリカと中国以外の顧客について、ツールーズとハンブルグでほぼ半々で製造を分担し、全世界へ輸出している。たくさん売れている飛行機なので、2拠点工場は合理的なのだ。

アメリカと中国の顧客については、主要な部位をツールーズから船で輸出し、アメリカ用はアラバマ工場、中国用は天津工場で、最終組み立てを行っているという。飛行機という商品は、出来上がったあと、それを実際に飛ばして顧客のもとに届けるほうが、顧客の近くに工場を建て、かさばる部品をそこまで運び、現地で従業員をやとい教育して作るよりも、はるかに容易なはずにもかかわらず、である。どちらも、政治的な理由を反映した決定だったという。

5.ドイツもフランスも調整型市場(CME)だからといって、統合が容易なわけではない

統合後も、フランスとドイツの二拠点で平行して事業を進め、両国政府が同じように影響を及ぼしているというが、エアバス社の企業文化は、フランスがベースか、ドイツがベースか?

かなり失礼な質問とは思いつつも、訊いてみた。本当に聞きたかったのは、ドイツ型の調整能力をエアバス全体でフルに発揮できれば、製造能力は高まり、品質も効率もあがり、競争力も向上できるのではないか、そう思っているドイツ人のエンジニアやマネジャーは多いのではないか、そう考えるボード・メンバーもいるのではないか、である。もちろん聞けたわけではないが。たとえばルノーと日産がアライアンスを続けるのであれば、製造ノウハウや組織マネジメントに関するルノーのやり方を日産に持ってくるよりも、日産のやり方をルノーに移転できれば、より合理的ではないか。それと似たようなことがエアバスの中でも議論されたりしているのだろうか。

ある程度、想像はしていたが、対応してくださったドイツ人社員からは、「ヨーロッパに本社のある、グローバルな企業」でありそのような組織文化を持つと、ドイツなまりのない完璧な英語で返事をもらった。また、ハンブルグ工場では、生産ラインの現場の一線はドイツ語で仕事をしているが、工場の管理職とホワイトカラーの多くは英語で仕事をしている、エアバス社の英語化はかなり早い段階から進んできている、仕事の進め方や意思決定のあり方でも、国の違いはほとんど意識しない、と言われた。これが建前なのか、本当なのか、判断がつきかねるところはあるが、ヨーロッパの一体化を象徴する企業組織である(範たろうとしている)ことは間違いない。

フランスもドイツも、調整型の市場経済を持つ(Coordinated Market Economy)ことになっているが、それでも互いに多くの文化や規範を含む制度上の違いを持っている。それにもかかわらず、それを包摂して1つの組織を作り事業を展開していることに敬服する。そして調整型の市場における、ステイクホルダー調整ガバナンスと、アメリカ型の株主ガバナンスとで、経営のやり方がずいぶんと違うことを、改めて思い知らされる。この二つのガバナンスのもとでは、異文化マネジメントのやり方も変わってくることに気が付く。その中で、フランスとドイツという英語の苦手な欧州の大国が、英語を共通語として経営を統合していく様子や、そのために必要な教育を中等・高等教育に求め、それを手に入れてきている点も驚嘆する。

このようなエアバスの成功体験を持ったフランス人にとって、ルノーと日産や三菱自動車とのアライアンスは、どう見えるのだろうか。日本人が考えるものと、かなり違うのかも知れないとも思うようになる。まだたくさんのことを消化しきれていないので、もう少し時間をかけて、聞いてきたことを整理して行きたいと思う。

2019年2月15日金曜日

デンマーク企業は「世界一フラット」だというが、それでなにかいいことがおこっているのか

スイスのシンクタンク《世界経済フォーラム》が、昨秋(2018年10月)、デンマークの企業は世界で最も上下関係の薄い「フラットな組織」だというレポートを出した。

同フォーラムが毎年行っている、世界経済の競争力ランキングで、集計用のデータを使った特集記事である。競争力ランキングのなかでフラットな組織を持つデンマークをわざわざ取り上げたということは、競争力と組織のフラットさとの間に、重要な関連があるということなのだろう。

同レポートによれば、「フラットな組織」を持つデンマーク企業では、社員がエンパワーされ、多様な考えを百出する。異なる考えが尊重される柔軟な組織のため、イノベーションが起こりやすい。だから競争力ランキングで、デンマークが上位に入っているということのようだ。

一見もっともらしいが、本当なのだろうか?いくつかの、異なる問題に分けて考える必要がありそうだ。


  • そもそも、フラットな組織とは何か?
  • 次にフラットな組織だと、社員がエンパワーされ、多様な意見が出やすくなるのか?
  • 多様な意見がでると、イノベーションが起こりやすく、イノベーションが起こると、競争力が高まるのか?
  • もしそうだとして、どのようにすれば、組織はフラットになるのか?


これから1つ1つ、考えてみたい。

2019年2月12日火曜日

デンマーク人は、午後4時に退社してなにをするのか?

デンマークでは、平日の午後4時すぎごろから、オフィスが閑散としてくる。

午後5時すぎにオフィスにいると、ものすごく遅くまで仕事をしている気分になる。残業はほとんどしない。飲み会はなく、飲みに誘っても、まず来ない。金曜日は、午後3時にもなったら帰途につき始める。就業開始は午前8時や8時半など、日本よりも早いことが多いといえ、長時間労働が当たり前の日本と比べると、オフィスで仕事をしている時間は、明らかに少ない。

それで一人当たりのGDPが日本よりも高いことの理由の一つに、時間当たりの生産性が高いことは、別のところで触れた。今日は、そんなに早く仕事を切り上げて、そのあとに何をしているのかについて、気が付いたことを書く。

若い世代は、子育てに時間を使っている。パートナーは男女対等に、役割を分担しているようだ。朝は、自転車の前に乳母車をくっつけた「クリスチャニア・バイク」に子供を2~3人乗せて、保育園や幼稚園に連れて行く。ラッシュアワーの街角で、クリスチャニア・バイクをこぐ男女比率を数えてみたが、ほんのちょっぴり女性が多いもののほぼ五分五分だ。保育園に子供を預けたら、そのまま自転車で出勤する。帰りも同様である。


(http://livingcph.dk/where-to-borrow-a-christiania-bike-for-free/)

デンマークの合計特殊出生率は90年代からの20数年間、平均して1.7で、日本の1.4を大きく上回る。先進国のなかでも際立って高い。成人女性のほとんどが仕事を持つ共稼ぎだ世帯だが、保育園や学童保育の充実を含む高福祉政策とともに、短い労働時間も、高い出生率に寄与していることは間違いない。

しかし労働時間が短いのは、子育てに忙しい若い世代だけではない。中堅以上の世代の社員も、午後4時には帰り始める。子育ての終わったデンマーク人は、午後4時に退社してなにをするのだろう。

皆、さっさと家に帰って、家族そろって食事を共にする。そのための準備を、共にする。コミュニティ活動も活発である。サッカーやソフトボール、カヤック、水泳などスポーツ系のクラブ、読書会や詩の朗読会、料理など文化・芸術系のクラブが代表的なようだ。自分たちが楽しむものばかりでなく、子供や恵まれない人たちを支援するボランティア活動も多い。デンマーク人のおとなの7割近くが、このような何らかの会員組織に所属しているという。夕食の後にこのような活動に参加することもあるし、週末も充てられる。

また、外壁の塗り替えやちょっとした修繕をはじめとした、家のリノベーションの大工仕事など、日本人だったらやらないようなことまで、自分たちでDo It Yourself (DIY)をやっている。日本では、たまに一部の男性が趣味でやっているようだが、こちらでは多くの場合、夫婦やパートナー、親子などが分担してやる。人件費が高いということも、その背景にあるようだが、住み心地の良い住居にこだわり、インテリアに凝る北欧の文化も影響しているのかもしれない。

こちらに来て、ときどき家に食事に招いてもらうことがある。たいていは1か月以上先、場合によっては2か月も先のスケジュールを聞かれて、最初のうちは不思議に思っていた。しかし、デンマーク人の毎日のスケジュールが、結構、詰まっていることを知るようになり、なるほど、そういうことかと分かり始めた。みな、毎日、忙しい。午後4時にオフィスを退社しないと、やることがいっぱいあるのである。

そしてこのような生活をしていると、仕事とは、人生のなかの、重要であるがあくまでも一つにすぎないことが、よくわかる。起きている時間のほとんどが仕事のためにあり、仕事で壁にぶつかると、人生の壁にぶつかったような気分になる人間とは、かなりちがう人生観や世界観をもっているらしいのである。この国の人たちの幸福度が高いという話とも、つながっているに違いない。

2019年2月7日木曜日

でもどり

また長期滞在許可を得て、2018年10月からコペンハーゲン・ビジネススクール(CBS:Copenhagen Business School)に来ている。19年の7月まで滞在する。2011年秋から12年夏までの滞在から数えて、6年ぶりである。

2012年から18年までの間も、毎年、集中授業に呼んでもらっていた。学会や講演会でも押しかけたりしていた。だが、長く住み始めると、短期滞在では見えないことが見えるような気がする。やっぱりそうだったと再確認できることも、勘違いや思い込みだったと気が付くこともある。日記もBLOGも長続きしない悪筆なのでうまくいく自信がないが、出戻りを機にまた少し、気がついたことを書いておきたいと思う。