5月13日と14日、Dulgas Haveキャンパスで、「第5回リーダーシップ・ダイバーシティ・インクルージョン・ワークショップ」と題したミニ学会に参加してきた。CBSのなかには、ダイバーシティに関する研究者たちのネットワークがあり、また「ダイバーシティと変革のリーダーシップ」にフォーカスした修士課程があって、その中心メンバーであるAnnette Riesberg教授が主催者だった。
スパルタ学会だった
朝8時(!)から夕方まで、びっしりアジェンダが組まれている。初日は懇親会もある。
発表しているとき以外は黙って聞いているだけ、という通常の学会とは異なり、すべての発表で、聞いている側も3~4名ごとにグループワーク(!)がある。グループワークではPadletというBLOG風のグループウエアを使ってグループでの議論を即時アップしていき、発表者との質疑応答も、リアルでやるとともにオンラインでも行う。結構ハードなワークショップでした。
今度、立教でやるワークショップでも取り入れてみようかな。でも一度やったら、次から参加者が激減するかもしれません。
研究対象の彼我の違いを思い知らされる
アメリカのAOM(Academy of Management)やヨーロッパのEAMSA(Euro-Asia Management Studies Association)といった学会で、数あるトラックの1つとしてダイバーシティ・マネジメントのセッションに参加したことはある。発表もやった。
そこでの主要なテーマは、どのようなインクルージョンが、社員の組織コミットメント(Organizational Commitment~モチベーションと忠誠心みたいなもんですな)を上げ、社員の満足度とともに組織のパフォーマンスを上げるか、あたりである。
しかし今回のような、朝から晩まで、かつ2日にわたって、学会全部がダイバーシティとインクルージョンにフォーカスしたものは、2018年3月に当方が立教で主催したもの(リンクはその中の公開講演会の分です)以外、今回が初めてだった。CBSや欧州でダイバーシティに関係する研究者がどんなことをやっているのか、興味津々で参加した。
日本の状況への驚き
当方は例によって、日本企業の取り組みが遅々として進まない(進んでいる)状況と、その背景にある経営者のものの考え方や関心について、発表した。
日本的な人事慣行(新卒一括採用と年功の重視、社内労働市場を通した適材適所とスキルの蓄積、労働市場の流動性の低さ)を維持したままで、組織における多様な人材の活用を進めようとしたときに企業が直面する、制度的な補完性の難しさ、移行費用とリスクの高さ、それに見合うリターンの低さ(低く見えること)、これらの困難に立ち向かう経営者のリスク受容性やオーナーシップ、リーダーシップ、正統性、あたりの話をデータとともにやった。
そのような状況のなかで、組織を大きく変えることの意義を経営者に伝えるためには、短期と中長期にわけて、企業レベルでの経済的なメリットを示す必要があることを指摘した。
短期的には、ダイバーシティ・マネジメントに取り組んでいる先進的な企業が、株式市場や市民社会での差別化を通した評価によって、先行者利益がある。
中長期的には、日本的な人事慣行を維持することのコストが上がっているなか、その変革をダイバーシティ・マネジメントを組み込みながら行うことによって、采配の効率性やイノベーションの可能性などの経済合理性がある。
参加者からは、アベノミクスの1つとしての女性活躍推進法は、国民経済上のメリットから導かれた政策のようだが、企業自身のメリットにつながるわけではないだろう、企業が主体的に取り組むインセンティブはあるのか、というもっともな質問も出た。しかしそれ以外は、おもしろい、興味深い、というコメントももらったが、実態は、遠い異国で起こっている、理解を超えたエキゾチックな話を聞いてしまった、あたりだろうか。
ひとことでいえば、企業はダイバーシティ・マネジメントに取り組むべきか、それで業績があがるのか、といったことに日本の企業の関心がある、ということ自体、彼らの多くにとって、信じられない話だったようである。
彼らの関心の対象は何か
それこそ、発表テーマ自体が多様だった。とはいえ、ざっといえば、当方以外の発表の関心は、次のようなものだ。
- 組織や社会として向き合うべきマイノリティグループとはどういう人たちか
- 彼らは、どのような不利益を被っていると感じているか
- それをどう実証的に把握するか
- 経済的な不利益以外に、疎外感や不正義など、倫理的・社会的・政治的な不利益をどう考えるか
- それを、マジョリティはどうやって見つけ出すか、マイノリティが声を上げるまでまつのか、企業や政府が積極的に探すのか
- 社会のタブーとどう向き合うか
- どのようにインクルージョンをすればよいのか
- どのような原則をたて、どのようなオペレーション上の問題に立ち向かうのか
- これまでの分析アプローチのどこが不十分か、どのような新しいアプローチが使えるか
こういう観点から女性やLGBTに加えて、現在、政治的なテーマとなっている難民や移民、そして定義が拡大しているという障がい者、などについて、研究発表が行われた。
ちなみに障がい者の定義の拡大とは、法律のもとで定義が明確な障がい者に加え、法律とは関係なく、社員の自己申告にもとづく障がいをさす。昨今、企業はそのような障がいへの対応も必要になってきているというのだ。知りませんでした。
変わり種では、ビンゴ(!)やレゴ(!!)を使って、学生や社員に、組織における多様性やインクルージョンについて考えさせる教育法を分析したものや、言語学者が新聞記事で使われている言葉を分析したものもあった。
ビンゴはアンコンシャス・バイアスを気付かせるもので、レゴは組織における人材の多様性を客観的に俯瞰するものだ。いずれもびっくりするような取り組みである。
また言語学からの研究は、職業に関する単語が、どのような言葉と結びついて使われているかを、「ベクトル距離」という手法を使い、ビッグデータ解析を行ったものである。たとえば90年代初頭は、「秘書」と「彼女」や「エンジニア」と「彼」など、特定の職業と性別との距離が明らかに近いとみられる表現が多く存在したのに、25年たった現在では、そのような結びつきがほとんど見られなくなった、ということを実証して見せた。
このような変遷は、「ポリティカル・コレクトネス(一種の建前)」が確立した結果、記事を書く人間が言葉使いを気を付けるようになったことを示しているのか、それとも、実態として職業と性別のつながりが薄くなったことを示しているのか、という質問が出た。もっともな質問だが、研究自体からは答えが導けそうにはない。このデータ分析は、より多くの新たな質問と研究テーマを呼び起こすようだ。
日本の経営系学会で、同じようなテーマが成立するか
こういうテーマだけでは、日本の経営系学会で2日はおろか1日ももたないだろうなあ。上でふれたように、昨年(2018年3月)立教大学でダイバーシティに特化した1日半のミニ学会をやったが、発表のほとんどは、伝統的な組織行動論や人事管理論、異文化マネジメント論からの研究で、倫理や社会正義を正面から取り上げた研究は無かった。まだ日本では、企業経営者や人事のダイバーシティ担当者に対して、こういう話をやっても、引かれるのでしょう。
日本の大学では、こういう分野は、フェミニズム、マルクス主義社会学、正義と人権をめぐる法学や倫理学、あたりではちゃんと研究されているテーマだろう。しかし、経営者がそこから積極的に学ぼうという動きはなさそうだし、経営学系の学会で真正面から取り上げるところも、あまりないのではないか。
彼我の関心の違いの背景はなにか
組織にとって、多様性を取り込むことにメリットがあるのか、コストが増えるのか、といった点をめぐる議論は、ほぼなかった。
唯一の例外は、アメリカ企業において、LGBTグループを尊重する企業とそれ以外で、特許取得率に示される技術開発力(イノベーションの代理変数)に違いがあるかどうか、についての実証研究があったぐらいだ。発表を聞いているうちに、ダイバーシティ・マネージメントをやると業績が上がるのか、という質問自体が成立しない状況を改めて考えざるを得なかった。
多様性を受け入れない企業自体、まともな経営をしていない企業とみなされるのだろう。その上で、対象の範囲や、インクルージョンの稚拙などが、経営上の課題となっているようだ。
気づいたことが2つある
当方が、50年前のアメリカでは、労働者を差別することが、資源配分の効率性を上げるか下げるかという議論が、公民権運動の高まりのなかで起こった、その中で、人種や性別をもとに労働者を差別(区別)すると、結果的に人件費の高止まりと資源配分のゆがみをおこすことが実証されてきた、ということを指摘すると、何ですかそれ、という顔をする研究者が多かった。
たんに彼らの分野が経済学と違う、というだけのことなのか。
欧州でも経済学(とくに組織の経済学~かつての労働経済学)の学会では、ちがう関心を持ち、違う議論が行われているのか。しかし経営学を学ぶ人間が集まって、経済的な効率の観点がまったくなかったのは、やはりちょっとびっくりしました。
発表を聞いているうちに、2つのことを思った。1つは出稼ぎ労働者の問題、もう1つは、環境問題である。
出稼ぎ労働者とインクルージョン
出稼ぎ労働者というと、ドイツが有名だ。しかしデンマークでも、60年代から70年代に、トルコ人を中心とした出稼ぎ労働者を多数受け入れたという。
日本と同様、ヨーロッパでも当時は高度経済成長期で、労働の供給がひっ迫していた。背に腹は代えられぬと、単純なブルーカラーの仕事をしてもらうため、トルコなどから労働者を受け入れたのだ。
なぜそれが、欧州のダイバーシティをめぐる問題意識と関係しているか。
それは、当時、ダイバーシティ・マネジメントという考えがないまま、出稼ぎ労働者を迎え入れたことをめぐる反省であろう。今回の学会で、そのこと自体をとりあげた研究はなかったが、さまざまな場面で、この問題が亡霊のように出てきた。
当時の欧州では、これら出稼ぎ労働者を、組織における多様な人材として遇するという発想が全くなかったようだ。企業としても社会としても、彼らをインクルージョンするという考えが皆無だったのだ。
「出稼ぎ労働者(Guest Workerという用語をつかっていた)」という言葉が示すように、彼らは腰かけでいずれ母国に戻る労働者、とみなしていた。そして、そのような無策のつけを、デンマーク社会は今になって払っている。そのコストとは、犯罪率の上昇や社会不安、社会的分断などである。それは、値段をつけようにもつけられないほど高い、と考えているようだ。
このような後悔の念があって、企業も社会も、多様な人材を受容することは当然と考えるようになったのだろうか。これは公共経済学をつかうと、将来発生する可能性のある負の外部経済を、予防的な費用の分担を行うことで防ごう、という話である。
2019年4月に改正入管法が施行された。日本でも本格的に海外からの労働者を受け入れるようになるという。ダイバーシティとインクルージョンの観点からの議論も必要になってくるだろう。
環境問題とダイバーシティマネジメント
もう1つは、環境問題とのパラレルである。個々の企業が、環境問題にどこまで責任をもつべきか、そのためにかかるコストをどこまで負担すべきか、という問題と、ダイバーシティ・マネジメントをめぐる企業のコスト負担との間に、似た構造があるようだ。
企業の生産活動や製品の提供する価値に負の外部経済が含まれる場合、だれが環境問題の被害者の補償をするか、という問題がおこる。企業は、直接の因果関係が見えない限り、知らんふりをして、費用を負担せずにすませられるからである。
環境問題をめぐっては、日本を含む先進各国で、長い時間をかけて、具体的な法規制と社会規範の変化の2つが起こってきた。その結果、個別企業が、狭い因果関係のあるなしにかかわらず、騒音や排煙、廃液などの処理にかかる費用を負担することが、先進国ではあたりまえになった。他方、法規制も社会規範もまだ整っていない途上国では、企業はそのような費用負担を「余計なコスト」とみなしている。
CBSでの発表を聞いていて、そのことを思い出したのは、ひょっとしたらデンマークや欧州の企業経営では、環境問題と同様に、人材の多様性を認め、それを受け入れて経営することが、法的にも社会規範上も、前提として成立しているのではないだろうか、と考えたからである。
もしそうだとしたら、環境問題の場合と逆に、おそらくは組織における多様性は正の外部経済を持っていて、各企業が個別にそれを回収することは困難だが、社会全体として、その恩恵にあずかることができる、という話なのだろうか。
これら2つの点は、いままで考えたこともなかった内容だ。これからすこしゆっくりと考えてみたいと思う。