2020年5月14日木曜日

企業の目線で国の違いと向き合うとは(2)

1つ前の記事で、「企業経営の観点で自国と外国の違いをきちんと把握する」ときに最初に思いつくのが、海外にも自社の商品を買ってくれるお客さんがいそうかどうか、いわゆる海外市場(マーケット)の大きさをめぐるものだと説明した。しかし企業は、海外の顧客に自社商品を買ってもらうためだけに外国へ進出するわけでもない。

海外で社員を雇い、工場を建て、現地で商品を作ることも、外国進出の重要な理由の1つだ。それだけでなく、海外の企業に自社商品を作ってもらうことや、海外の企業から、必要な原材料を調達することも、国際経営に含まれる。従って、外国に顧客がたくさん存在しそうかどうか、買ってくれそうかどうかを見るために、市場の大きさに関したデータを調べるだけでは、不十分なのだ。

では企業は、どのように「外国」を理解すればよいのか。企業の目線で、さまざまな国を理解するためのもっとも首尾一貫した方法は、国の「制度」を分析することである。

制度

突然、「制度」という言葉が国際経営に出てきて、びっくりするかもしれない。しかし、企業が「外国」を理解するうえで、もっとも便利な分析枠組みは「制度分析」であろう。この概念は、政治学や社会学などにルーツを持つが、国際経営に即した形で使われるようになったことには、ダグラス・ノース(Douglas North)や青木昌彦の貢献が大きい。

ノースの考察からは、国を理解するうえで、①フォーマルなルール、②インフォーマルなルール、③ルールを守らせる執行メカニズム、の3つからなる「制度」を分析することで多くが明らかにできることが示された。

制度と国の経済パフォーマンス

では、国の制度が異なると、結果として、国のなにがどう変わるのか?それは国際経営の観点で重要なことなのか?

ノースの考察は、ロナルド・コース(Ronald Coase)の取引費用理論(特に「コースの定理」)の上に展開された。現実の市場は、経済学者が想定するような、多数の売り手と買い手が自由に価値を交換するなかで「均衡」する状況とは程遠い。売ったり買ったりするのには、たいへんな「手間」がかかる。この手間を「取引費用」と呼ぶ。ノースは、そのような市場の「取引費用」は、国の制度によって、高かったり低かったりすること、取引費用を低くする制度を持っている国は、経済パフォーマンスが良いことを示した。

国の経済規模を示すGNP、一人当たりの生産力や賃金水準、購買力を示す、1人当たりGNP、そしてこれから将来へ向けての成長性を占うGNP成長率、などが国際経営を行ううえで重要な経済指標であることは、すでに述べた。

では、これらの経済指標は、なぜ国によって違うのか?今後、どう変わっていくと考えられるのか?

これらも、国際経営を行う上で重要な問題である。そこで、このような経済指標のもたらされる背景要員として、制度を分析することが必要となる。経済パフォーマンスは、市場をめぐる制度の良しあしによって、大きく影響されているからである。国の制度が異なると、結果として、国の経済パフォーマンスが異なる。それは国際経営の観点で重要なことなのである。

2020年5月1日金曜日

企業の目線で国の違いと向き合うとは(1)

企業が国際化する、つまり会社が事業を海外で行おうとするときに、これから向かおうとする国のことを、どれだけきちんと理解すべきか。

たとえば我々が海外旅行をしようとするときは、どうだろう。ガイドブックを読んだり、ネットで調べたりする人もいれば、事前に何も調べず、行き当たりばったりで旅行する気ままなバックパッカーもいるかもしれない。

行き当たりばったりで海外進出しても、いいんじゃない?

遊びで「会社ごっこ」をやっているのだったら、行き当たりばったりもありだし、結果オーライでいいかもしれない。しかし普通、企業は株主から出資してもらい、銀行から融資を受け、それらのお金を使って人を雇い、オフィスを借り、必要なものを調達して仕事(生産活動)をする。そしてそれらにかかった費用を上回る売上げを出して、初めて、会社を続けることができる。

だから、企業の経営者は「外国に進出しても大丈夫、事業がますます成長する」という確信を持てないといけないし、それをステイクホルダー(株主、銀行、社員、取引先など)に対して伝え、協力を仰ぐという「説明責任」を果たさなくてはならない。その第一歩が、国の違いを企業の目線で把握することなのだ。

国の違いを理解する第一歩

企業経営の観点で、自国と外国の違いをきちんと把握する、と言ってすぐに思いつくのが、海外にも自社の商品を買ってくれるお客さんがいそうかどうか、いわゆる海外市場(マーケット)の大きさをめぐるものである。

1人当たりのGNP(国民総生産)

1人当たりのGNP(国民総生産)を調べることで、その国の平均収入が分かる。そこから、およその購買力がわかる。これらの数値が小さい国とは、あまり豊かではない国ということになる。例えば日本では、マクドナルドのハンバーガーは安くて美味しい、ちょっと小腹がすいたときに便利なカジュアルな食事とされている。しかし1人当たりのGNPやGNIが少ない発展途上国では、ちょっと特別な時にしか食べることのできない高根の花となる。

1人当たりのGNP(国民総生産)は、賃金相場を調べるときにも参考にされる。これらの数値が小さい国は、お客としては購買力がないかもしれないが、社員として雇うときには、安い給与で雇用できる可能性がある。今から20年ほど前、多くの日本企業が中国に進出したときの理由は、中国のお客さんに日本の商品を買ってもらうためというよりも、中国の労働者を低賃金で雇い、安く商品を作って日本や海外に輸出するためだった。

人口・GNP

人口を調べることで、どのくらいのお客さんがその国に存在しそうかどうかがわかる。人口が多ければ、お客さんも多い可能性がある。だから1人当たりのGNP(国民総生産)に人口を掛けたGNP(国民総生産)が、マーケットのおよその大きさということになる。

GNP成長率

GNP成長率というデータも従業だ。これを使うと、来年は今年よりも商売が伸びそうか、何%ぐらい増えそうか、その国に将来性はありそうか、ということを予想することができる。たとえば2018年から2019年にかけて、日本は0.7%成長した。実質的には変化なしという水準である。他方でインドネシアは5%、中国は6%、ベトナムは7%、成長している。(IMF統計)多くの企業が頭打ちの日本市場にとどまるよりも、将来性のあるアジア各国に進出したくなるのもわかる。

国土・資源・平均年齢・所得格差など

これ以外にも、国土の広さや資源、平均年齢や所得格差なども、重要なチェックポイントだ。国土が広いと、あちこちに支店を作らないとお客さんをカバーできないかもしれない。天然資源が豊富で安ければ、現地での生産に有利かもしれない。平均年齢が若ければ、人口もまだまだ増えるだろうから、お客さんの観点でも、労働者の雇用の観点でも、将来性が見込めるかもしれない。所得格差の大きい国だと、いくら1人当たりのGNPが高くても、現実にはひとにぎりの大金持ちと、大勢の貧しい庶民からなる国なので、実際には多くの国民の購買力はそれほど大きくないことになる。安い賃金で雇用できるということもあるだろう。

これらの指標をちょっと確認するだけで、その国についてかなりのことがわかる。「企業の目線」で国の違いを理解する第一歩である。

2020年4月16日木曜日

国際経営は、なにをどんな順番で学べばいいか?

これは、国際経営の教科書の目次はどうなっているか、という質問でもある。その答えは、日本とアメリカを中心とした海外で、かなり違う。

日本で出版された国際経営の教科書の中身は多様だ。著者によって、構成がかなり異なる。海外の主要な理論の紹介を中心としたものもあれば、国際戦略やマーケティング、海外生産と技術移転、組織のデザインや人事マネジメントなど、国際経営の実践的なトピックを中心にまとめられているものもある。

それに対してアメリカの国際経営の教科書は、どれも似た「定番」の構成を持っている。大きく前半で、経営環境が自国と海外とでどう違うかについて焦点をあてる。そして後半で、実践的な経営上の課題にフォーカスする。国の違いについて体系的に理解したうえで、それが企業の経営にどう影響するか、そのような影響に対してどう対処すべきか、を考えさせようとしているのだろう。

それもあって、日本の教科書に比べて、いずれも分厚い。前半は通常の経営学の専門分野とは大きく異なる、政治学や経済学、社会学や文化人類学などの分野にまたがり、それらの知識を踏まえて、企業にとっての国の違いの意味を考察することになる。

とはいえ、前半と後半がうまくつながった教科書は、まだ見たことがない気がする。前半で示された、企業にとっての国の違いが、後半で展開される実践的な企業経営の困難にどのように結びついているのか、という繋がりの部分を総合的に把握し、全体像を明確に示した教科書は、まだないのでなないか。

世界で最も売れているとされるCharles Hillの教科書は、そこのところをリカードの貿易論とダニングのOLIモデルでさらっと触れているだけだし、最近注目されているMike Pengの教科書は、彼自身が提唱する三脚(Tripod)モデルに偏りすぎているように思われる。逆に言えば、国の違いが企業経営にどのように結びつくか、というところが、国際経営の最も重要な、かつ、最も難しい、現在も明確な答えを求めて研究が進行中のテーマなのだ。

国際経営の前提はなにか?

分析の対象となる企業は、通常は、自国で持続的に事業を行っている企業である。生まれつきグローバル企業(Born Global Firms)のような企業については、今のところ例外的なケースとして分けて考察している。したがって、自国で経営をまともに行い、利益を出し続けることのできている企業が、海外でも持続的に事業を行うことができるか、できているか、について考察することになる。

国際経営を学ぶ側も、企業が自国で持続的に事業を行うことができる理由を理解できている必要がある。つまり、経営学一般への理解である。その中でもとくに重要なのが、競争戦略論だ。国内でライバルとの競争に勝てていない企業が、海外に進出して急に成功できるという例は全くないわけではないが、少ない。そもそも、そのような企業は、海外進出に必要な資金も人材もノウハウも、なかなか揃わない。


国際経営とはなにか

国際経営とは、企業が複数の国で経営を行うことを指す。自分の国で商品を作り、自分の国でそれを売っていた企業が、ある時から海外でも販売するようなケースを思い浮かべるかもしれない。トヨタやソニーを始め、日本の製造業の多くの国際経営がここから始まった。販売の国際化である。

それ以外の国際経営もある。自分の国で原材料を調達し、それを使って商品を作り、自分の国でそれを売っていた企業が、原材料を海外から調達し始めるのも、国際経営である。海外に工場を建てて現地で製造したり、海外の別の企業に製造を委託したたりして、引き続き自国で販売するケースも、国際経営である。調達や製造の国際化だ。いまのようにグローバル企業になる前のユニクロが、その代表例だろう。中国の協力会社に製造委託し、価格を抑えた商品を日本に輸入して国内で販売していた。

もちろん、製造拠点を内外に持ち、販売も世界中で行うという、調達・製造も販売も国際化した本格的な多国籍企業もある。現在のトヨタやソニーを始め、日本を代表するグローバルな大企業の多くがそれにあたる。

変わり種の国際経営は、本社だけが自国にあって、それ以外は世界中で活動している企業、あるいは便宜的に本社がある国に存在しているだけで、企業の活動は初めからグローバルという企業もある。「生まれつきグローバル」企業(Born Global Firms)である。パソコンのマウスやキーボードなどの周辺機器メーカーとして世界的なロジテック(Logitech)という会社は、その代表例だろう。今から40年も前に、アメリカ人エンジニアがスイスに本社を設立し、アメリカに研究開発拠点を、アイルランドや台湾に工場を建てて、最初からグローバルに活動していた。

なぜ学ぶのか?

その最も大きな理由は、国際経営は簡単ではないからである。ハーバード大学ビジネススクールは、企業のケース・スタディで知られ、数多くのケースを出版している。その中でも有名なのが、ウォルトディズニー社の国際経営である。

同社は、かつてアメリカだけにテーマパーク事業を展開していたが、1983年に初めてアメリカ以外の国でテーマパーク事業を始めた。東京ディズニーランドである。その後、パリ(1992)、香港(2005)、上海(2016)でもディズニーランドを開設した。現在、米国内2か所と海外4か所で、事業を展開している。いずれも、基本的には映画やゲーム、キャラクタービジネスとシンクロするという、まったく同じビジネスモデルの上に、ほぼ同じ内容のパークを世界各地に作り、運営している。

(ディズニー氏によるディズニーランドのオープニング、1955年
出典:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Waltopening.jpg)

東京ディズニーランドの大成功を知っている日本人であれば、同社のテーマパーク事業はどこでやっても成功間違いなしの、「鉄板」ビジネスと考えるのではないだろうか。しかし東京の大成功ののち、満を持して開設されたパリのユーロディズニーランドはオープン当初から苦戦する。ハーバードのケースになるほどの困難な事例だったのだ。ディズニー社のテーマパーク事業のような、外から見ると成功の約束されているようなビジネスでも、そうは問屋がおろさない。国際経営は難しいのである。

どこらへんが難しいのか。なぜ難しいのか。どのようにすれば、そのような困難を克服し、海外で事業を成功させられるのか。そして、これらの問題は、どういう理論を使って考えればいいのか。これが国際経営で学ぶ中心的な内容である。

2019年9月9日月曜日

デンマーク人と日本人で、「チームワーク」という言葉の意味が違うらしい

わがゼミは、毎年、CBSを含む海外の提携大学からの交換留学生たちを半年から1年、受け入れて、日本人ゼミ生とともに学んでいる。一緒にやるときは英語の文献を読み、プロジェクトをやる。それで気が付いたことがある。「チームワーク」という言葉の意味が、どうやら我々日本人と彼らとで、かなり違うようなのである。留学生、とくにデンマークからきた学生のグループワークのやり方は、日本の学生のそれとは、似て非なるものだ。

グループ・プロジェクト

もちろん日本人学生のなかにもいろいろいる。真面目にチームワークをやる学生にフリーライドしてしまう学生もいたりする。しかし少なからぬ学生はしっかりと時間をとり、ミーティングを重ね、濃厚に意見を交わし、全員参加でプロジェクトを進めてくれる。そして時々、こちらが予想してなかったような、面白い発表をしてくれたりする。

そのチームの中に、デンマーク人など海外からの学生が入るとどうなるか。

日本人と同じように、グループワークをやる学生もいる。せっかく日本に来たのだし、自分の国の大学には存在しない、ゼミなるもので、日本人と同じように勉強してみよう、という意気込みが感じられたりする。数年前には、ゼミ合宿に参加した留学生もいた。

しかし少なからぬ場合、チームワークのやり方に違いがでる。

もっとも典型的なのが、最初に分担を決め、スケジュールを作ったら、あとは一人で淡々と分担した箇所をやって、発表の日にそれを組み合わせて終わり、というパターンである。発表直前まで、互いに何がどこまで出来上がっているか、わからないままなのだ。でも、出来上がった自分の担当箇所は、結構、ちゃんとできている。時々、前後の部分とのつながりが悪かったりする。

日本人学生は、あいつらは真面目ではない、と文句を言う。

デンマーク人学生は、なんで文句を言われるのかわからないという。

議論を戦わせるなかで、学ぶこともあるでしょうとアドバイスしても、そのような議論は、本来、ゼミのなかでやることなのではないか、と逆に質問される。

グループワークの意味が違う

デンマーク人学生の話を聞くと、グループワークとは、1つの課題を、複数の学生が分担して行うことであって、同じ作業を複数のメンバーが共同で行うことではない、という。分担がうまくできるために、まず最初に、課題をどのように切り分けるか、そのどの部分をだれが分担するか、を決めることは重要なプロセスであり、ここに時間をかけることは理解できる。しかし、そのあとは各自が責任をもってやることではないか、それ以外に皆で話し合わなければならないことがあるのかとも。

日本人学生は、自分できちんと勉強していないから、議論と称して他の学生に教えてもらおうとしているのでは、という意見も出てきた。極めつけは、日本人学生と議論をしても、意味のある議論というよりも、単なる意見のいいあいになることが少なくない、というものだ。

そのような意見の依拠する考え方や根拠となるデータを問いただし、確認することが少ない。だから、理論の理解が不十分ではとか、別の理論も使えるのではとか、データが不十分なのではとかいった突っ込んだ話に発展することもあまりない。

なにより、そのような議論ができるメンバーが少なく、発言がいつも限られていて、それ以外のメンバーは黙っているだけなので、議論に偏りがある。自分たちも、自国の大学でグループワークをやっているが、日本人学生のやり方は時間が余計にかかるわりに、結果が各段に優れているわけでもない。

彼らにとってのグループワークとは、複数の人間が仕事をきちんと分け、それぞれが、分担した仕事に責任をもって仕上げ、またそれを最後に組み合わせることであっても、グループ全員で議論しながら全体をまとめることではないようだ。もう一つ、最小限の時間とエネルギーで、最大の成果をだそうという、生産性への意識も強い。

ちなみに、グループワークについて、このように考えている学生は、デンマーク人だけでもない。北欧の学生はいずれもそうだし、フランス人学生もそうだった。また、この状況はわがゼミだけでの話でもない。CBSに来てデンマーク人学生がグループで卒論や修論をやるのを手伝ってきたが、そのときのデンマーク人同士のプロジェクトでも、彼らは日本人からしたら、グループワークではないだろうと思うような、淡々とした仕事の分担に基づくグループワークでプロジェクトを完成させる。

摺り合わせ型、レゴブロック型

グループワークをめぐる日本人学生とデンマーク人(それ以外も含む)学生との違いを考えていて、はたと気がついた。日本とアメリカの製造業の違いでよく指摘される、擦りあわせ型の生産と、モジュール型の生産に似ていないだろうか。

藤本隆宏(2001)らの議論によれば、ものづくりは「摺り合わせ」型と「モジュール」型に分かれる。前者は、長いつきあいのパートナー企業に、特注で部品を作ってもらい、それをすり合わせながらものづくりをしていく。後者は、つきあいのあるなしとは関係なく、毎回、入札で安い汎用品を買い付け、組み合わてものづくりをする。

前者では、ゼロから作ってもらう特注部品やパーツを使ってもらえるので、緻密でぴったりとフィットする製品を作ることができる。時間をかけて、こちらが希望する部品やパーツについて理解してもらい、場合によっては、作ってもらうために必要な機械や設備、職人の訓練に投資をすることから始めてもらう。

このような信頼のできるパートナー企業を見つけ、長期的な関係を維持していくことは容易ではない。値段の安さや短期的な効率だけを重視していたら、そのような関係はまず築けない。

後者では、義理もしがらみもなく、値段の安さや短期的な効率を実現できる。他方で、市場で簡単に調達することの難しい部品やパーツを使った製品を作ることは難しい。


2019年6月19日水曜日

カネカ炎上

いまごろになって、カネカ社が育休から戻ってきた男性社員に転勤を命じて炎上した話を知りました。あちこちで記事になり、議論されているので、いまさら感があるとは思いつつ、あえてひとこと。


そろそろ、転勤を含む総合職の采配のやり方を、「人権」と「エンゲージメント(企業と社員のベクトルをあわせること)」の観点から、考え直した方がよいのではないか。


総合職という職種は何をする仕事か

日本の企業の多くが、新卒一括採用で「総合職」という人材(の卵)を採用している。どういう仕事をするポジションかといえば、広い意味でで「基幹的な仕事」がメインだが、常にそうだというわけでもなく、「いろんな仕事」がまわってくる。

そのため、求職条件や就業規則に、「業務の都合で、配置転換や転勤を命じることがある」などと書かれている。これは、社員がそれを拒むと、解雇を含む懲戒の対象となることを意味する。

判例も定着していて、よほどのことがない限り、会社の命令は合法とされる。「よほどなこと」とは、本人側に正当な事由があるか、逆に、会社側にそれがない場合だ。

就活にいそしむ20代になったばかりの学生(今までは、その多くが男)は、自分のこれからの人生にとって、これがどのようなインパクトを与えるか、あまり考えないのだろう。会社に入ってからも、配置転換や転勤はサラリーマンとしてあたりまえのことだと受け入れている。


かなり異常な采配が当然の「総合職」

しばらく前のことだが、企業人とダイバーシティ・マネジメントの勉強会をやっていて、総合職の転勤制度は、海外では人権侵害とされる可能性があると話して、驚かれたことがある。

当方の関心が「経営の国際比較」なので、つい、ほかの国ではどうなっているか気になる。ざっと調べたことがあるが、いわゆる先進国(OECD上位20か国)で、多くの社員に対してこのような就業規則が適用されるのは、日本ぐらいだ。

アメリカやヨーロッパでこれに近いのは軍隊だろう。通常の企業では、営業とか人事とか広報とかいった職種別で求人があり、採用される。たとえば営業職として採用されたあと、会社の都合で人事に異動するということは、普通はない。

もちろん、採用された職種のなかで、転勤を打診されることはある。しかしそれを拒んだからといって、解雇や降格などはない。もし、そのようなことになったら、社員は企業を「雇用契約違反」で訴えればよい。すぐに勝つだろう。もともと雇用契約や就業規則に、そのような条件が含まれていないからだ。

したがって、会社側は転勤の本人のキャリア上のメリットを説明したり、昇給や昇進などのインセンティブを提供したりして、社員が納得して転勤をしてくれるよう努力する。転勤先に、配偶者用のポジションを用意することも、珍しくない。

軍隊以外で総合職に近い職種では、「幹部候補生(MT~Management Trainee)」というものがある。複数の部門を渡り歩いて、幹部候補として経験を積んでもらうことが雇用条件として明記されていることが多い。勤務地もグローバルだったりする。

しかし総合職との決定的な違いは、少なくとも3つある。

一つが期間。日本の総合職は、終身雇用が前提だが、MTは期間限定の、双方にとっての「お試し」的なポジションという位置づけである。決められた期間のうちに、幹部候補としての実績を上げられなかった場合は、幹部として登用されず、契約を打ち切る、という条件がつく。

次が人数や機会をめぐるもの。MTは、ごく少数の、選りすぐりを対象としたポジションだ。また、日本のように毎年、定期的に募集するわけでもなく、したがって、入社年次などという、役職とは別の社内の上限関係もない。

3つ目が、仕事の内容だ。日本の総合職が、基幹的な仕事もすれば、それ以外の「雑巾がけ」もするのに対し、MTでは、徹底的に基幹的な仕事を与えられる。

職種ではないが、「幹部育成プログラム(MAP~Management Acceleration Program)」というのもある。アメリカでもヨーロッパでも、内部登用を重視する企業はいまだにある。そのような企業では、人事制度の1つとして、将来、幹部となってくれそうな優秀な社員を選抜し、このプログラムに乗せる。そのなかで、採用された部門とは異なる部門に異動したり、転勤をオファーされたりするのだ。

MTでもMAPでも、異動や転勤をめぐっては、情報をくわしく開示する。なぜそのような異動が意味あるものか、本人に説明し、本人が納得し、合意することで次に進む。期間も区切られている。また、対象となる人数も、全体の社員のなかのごく一部である。

このように、日本以外の先進国の企業でも、異なる部門への異動や転勤はあるのだが、その実態は、日本とはかなり違う。

多様な人材の采配(ダイバーシティマネジメント)

ちょうど今週、ゼミOBたちが訪れて来てくれている。昨日、彼らと一緒に、コペンハーゲンから電車で30数分の、スウェーデンの街に行ってきた。ルンド(Lund)にある日系企業で働くスウェーデン人と、晩飯を食べながら話を聞かせてもらうためだ。同社は日本を代表する多国籍企業で、ヨーロッパにおける研究開発拠点を同地で展開している。1500人ほどのエンジニアが働いているそうだ。

話を聞いていたら、自分のチームにいる2人の社員のことを教えてくれた。一人はポルトガル出身で、ポルトガル人と結婚したので自国に戻って働きたいと申しでて認められたそうだ。一年に何回かルンドに出張に来る以外は、リスボンの自宅で仕事をしているという。

もう一人はフランス人と結婚したスウェーデン人で、奥さんはニースで仕事をしているそうだ。最初のうちは、互いに休暇を使って、行ったり来たりしていたが、ポルトガル人の同僚がリスボンで在宅勤務をするのを見て、自分もニースで仕事をしたいと申し出て、認められたという。

20人ほどのチームのなかの2人というから、メンバーの一割が遠距離、しかも海外の在宅勤務ということになる。日本の会社で、「沖縄出身の彼女と結婚するので、今の仕事は続けたいが、彼女の地元に引っ越したい」と言ったら、なんといわれるだろう。

しかしメールや電話、ネットテレビ会議などで連絡をとりながら仕事をしていて、離れたところにいるという意識もなく、仕事上、困ったことがないという。二人とも優秀で、しっかり仕事をしてくれている。そればかりか、ポルトガルやフランスの動きもリアルタイムで教えてくれるので、助かっているとも。

異なる能力をもち、さまざまな事情を抱えた、多様な人間が集まった組織で、どのように人材を采配するか。本人の望まない単身赴任が回避でき、ワークライフ・バランスもとれ、本人の満足度もあがれば、リテンション(人材確保)も、エンゲージメント(会社と本人のベクトルあわせ)も実現できて、業績への貢献も高いはずだ。

カネカ炎上と「人権」と「エンゲージメント」

教えてもらったポルトガル人やスウェーデン人のケースと似たようなことは、日本の親会社では同じようにはできていないらしい。日本の親会社ではできないダイバーシティ・マネジメントが、ヨーロッパの子会社で、実現している。

なぜか。

カネカのホームページを開けたら、最初に次のようなお知らせが掲載されていた。

やはり炎上を気にしてのことだろう。ある意味で、真面目な会社だと思う。他方で「育児休暇をとった社員だけを特別あつかいできない」という一文にくぎ付けになる。

ゴルフや囲碁は、異なる能力を持った人が一緒にプレイできるよう、最初にハンディをつける。これを特別扱いしてずるい、とは言わない。多様なメンバーでプレイできるおかげで、みなが楽しめる。

それと似て、長時間働ける人や、短時間しか働けない人など、人それぞれに異なる状況があることを認め、それにあわせて柔軟に処遇を行うことができれば、みなそれぞれに納得して、力を発揮するはずだ。

また同社は、特別あつかいしない状況とは、父親が育児を満足にできない状況だと間接的に認めていることになる。これも、問題ではないか。

ワークライフ・バランスを、社員の《主観的》な問題とする考え方からは、転勤により育児ができずワークライフ・バランスが維持できないと文句をいう社員は、「わがまま」とされるのだろう。

しかし、ヨーロッパで広く受け入れられているように、《尊厳》や《人間らしい生き方》を、すべての人間に備わった《基本的な人権》の一部とする考えにたつと、働き手が納得できるようなワークライフ・バランスの成立しないような仕事のさせ方は、人権侵害とさえいえる。

他方で、一人ひとりの違いを認め、尊重し、公正に評価したうえで処遇をすることができれば、働き手のエンゲージメントもあげられる。組織として、業績の向上にもつなげていくことができるはずだ。

2019年5月17日金曜日

CBSでダイバーシティ・マネジメントの学会に参加した

5月13日と14日、Dulgas Haveキャンパスで、「第5回リーダーシップ・ダイバーシティ・インクルージョン・ワークショップ」と題したミニ学会に参加してきた。CBSのなかには、ダイバーシティに関する研究者たちのネットワークがあり、また「ダイバーシティと変革のリーダーシップ」にフォーカスした修士課程があって、その中心メンバーであるAnnette Riesberg教授が主催者だった。



スパルタ学会だった 

8(!)から夕方まで、びっしりアジェンダが組まれている。初日は懇親会もある。

発表しているとき以外は黙って聞いているだけ、という通常の学会とは異なり、すべての発表で、聞いている側も3~4名ごとにグループワーク(!)がある。グループワークではPadletというBLOG風のグループウエアを使ってグループでの議論を即時アップしていき、発表者との質疑応答も、リアルでやるとともにオンラインでも行う。結構ハードなワークショップでした。


今度、立教でやるワークショップでも取り入れてみようかな。でも一度やったら、次から参加者が激減するかもしれません。  
 



研究対象の彼我の違いを思い知らされる

アメリカのAOMAcademy of Management)やヨーロッパのEAMSA(Euro-Asia Management Studies Association)といった学会で、数あるトラックの1つとしてダイバーシティ・マネジメントのセッションに参加したことはある。発表もやった。

そこでの主要なテーマは、どのようなインクルージョンが、社員の組織コミットメント(Organizational Commitment~モチベーションと忠誠心みたいなもんですな
)を上げ、社員の満足度とともに組織のパフォーマンスを上げるか、あたりである。


しかし今回のような、朝から晩まで、かつ2日にわたって、学会全部がダイバーシティとインクルージョンにフォーカスしたものは、2018年3月に当方が立教で主催したもの(リンクはその中の公開講演会の分です)以外、今回が初めてだった。CBSや欧州でダイバーシティに関係する研究者がどんなことをやっているのか、興味津々で参加した。  



日本の状況への驚き

当方は例によって、日本企業の取り組みが遅々として進まない(進んでいる)状況と、その背景にある経営者のものの考え方や関心について、発表した。

日本的な人事慣行(新卒一括採用と年功の重視、社内労働市場を通した適材適所とスキルの蓄積、労働市場の流動性の低さ)を維持したままで、組織における多様な人材の活用を進めようとしたときに企業が直面する、制度的な補完性の難しさ、移行費用とリスクの高さ、それに見合うリターンの低さ(低く見えること)、これらの困難に立ち向かう経営者のリスク受容性やオーナーシップ、リーダーシップ、正統性、あたりの話をデータとともにやった。 


そのような状況のなかで、組織を大きく変えることの意義を経営者に伝えるためには、短期と中長期にわけて、企業レベルでの経済的なメリットを示す必要があることを指摘した。


短期的には、ダイバーシティ・マネジメントに取り組んでいる先進的な企業が、株式市場や市民社会での差別化を通した評価によって、先行者利益がある。


中長期的には、日本的な人事慣行を維持することのコストが上がっているなか、その変革をダイバーシティ・マネジメントを組み込みながら行うことによって、采配の効率性やイノベーションの可能性などの経済合理性がある。 


参加者からは、アベノミクスの1つとしての女性活躍推進法は、国民経済上のメリットから導かれた政策のようだが、企業自身のメリットにつながるわけではないだろう、企業が主体的に取り組むインセンティブはあるのか、というもっともな質問も出た。しかしそれ以外は、おもしろい、興味深い、というコメントももらったが、実態は、遠い異国で起こっている、理解を超えたエキゾチックな話を聞いてしまった、あたりだろうか。


ひとことでいえば、企業はダイバーシティ・マネジメントに取り組むべきか、それで業績があがるのか、といったことに日本の企業の関心がある、ということ自体、彼らの多くにとって、信じられない話だったようである。

彼らの関心の対象は何か

それこそ、発表テーマ自体が多様だった。とはいえ、ざっといえば、当方以外の発表の関心は、次のようなものだ。


  • 組織や社会として向き合うべきマイノリティグループとはどういう人たちか
  • 彼らは、どのような不利益を被っていると感じているか
  • それをどう実証的に把握するか
  • 経済的な不利益以外に、疎外感や不正義など、倫理的・社会的・政治的な不利益をどう考えるか
  • それを、マジョリティはどうやって見つけ出すか、マイノリティが声を上げるまでまつのか、企業や政府が積極的に探すのか
  • 社会のタブーとどう向き合うか
  • どのようにインクルージョンをすればよいのか
  • どのような原則をたて、どのようなオペレーション上の問題に立ち向かうのか
  • これまでの分析アプローチのどこが不十分か、どのような新しいアプローチが使えるか

こういう観点から女性やLGBTに加えて、現在、政治的なテーマとなっている難民や移民、そして定義が拡大しているという障がい者、などについて、研究発表が行われた。


ちなみに障がい者の定義の拡大とは、法律のもとで定義が明確な障がい者に加え、法律とは関係なく、社員の自己申告にもとづく障がいをさす。昨今、企業はそのような障がいへの対応も必要になってきているというのだ。知りませんでした。

変わり種では、ビンゴ(!)やレゴ(!!)を使って、学生や社員に、組織における多様性やインクルージョンについて考えさせる教育法を分析したものや、言語学者が新聞記事で使われている言葉を分析したものもあった。

ビンゴはアンコンシャス・バイアスを気付かせるもので、レゴは組織における人材の多様性を客観的に俯瞰するものだ。いずれもびっくりするような取り組みである。

また言語学からの研究は、職業に関する単語が、どのような言葉と結びついて使われているかを、「ベクトル距離」という手法を使い、ビッグデータ解析を行ったものである。たとえば90年代初頭は、「秘書」と「彼女」や「エンジニア」と「彼」など、特定の職業と性別との距離が明らかに近いとみられる表現が多く存在したのに、25年たった現在では、そのような結びつきがほとんど見られなくなった、ということを実証して見せた。

このような変遷は、「ポリティカル・コレクトネス(一種の建前)」が確立した結果、記事を書く人間が言葉使いを気を付けるようになったことを示しているのか、それとも、実態として職業と性別のつながりが薄くなったことを示しているのか、という質問が出た。もっともな質問だが、研究自体からは答えが導けそうにはない。このデータ分析は、より多くの新たな質問と研究テーマを呼び起こすようだ。

日本の経営系学会で、同じようなテーマが成立するか

こういうテーマだけでは、日本の経営系学会で2日はおろか1日ももたないだろうなあ。上でふれたように、昨年(2018年3月)立教大学でダイバーシティに特化した1日半のミニ学会をやったが、発表のほとんどは、伝統的な組織行動論や人事管理論、異文化マネジメント論からの研究で、倫理や社会正義を正面から取り上げた研究は無かった。まだ日本では、企業経営者や人事のダイバーシティ担当者に対して、こういう話をやっても、引かれるのでしょう。

日本の大学では、こういう分野は、フェミニズム、マルクス主義社会学、正義と人権をめぐる法学や倫理学、あたりではちゃんと研究されているテーマだろう。しかし、経営者がそこから積極的に学ぼうという動きはなさそうだし、経営学系の学会で真正面から取り上げるところも、あまりないのではないか。

彼我の関心の違いの背景はなにか

組織にとって、多様性を取り込むことにメリットがあるのか、コストが増えるのか、といった点をめぐる議論は、ほぼなかった。

唯一の例外は、アメリカ企業において、LGBTグループを尊重する企業とそれ以外で、特許取得率に示される技術開発力(イノベーションの代理変数)に違いがあるかどうか、についての実証研究があったぐらいだ。発表を聞いているうちに、ダイバーシティ・マネージメントをやると業績が上がるのか、という質問自体が成立しない状況を改めて考えざるを得なかった。


多様性を受け入れない企業自体、まともな経営をしていない企業とみなされるのだろう。その上で、対象の範囲や、インクルージョンの稚拙などが、経営上の課題となっているようだ。

気づいたことが2つある

当方が、50年前のアメリカでは、労働者を差別することが、資源配分の効率性を上げるか下げるかという議論が、公民権運動の高まりのなかで起こった、その中で、人種や性別をもとに労働者を差別(区別)すると、結果的に人件費の高止まりと資源配分のゆがみをおこすことが実証されてきた、ということを指摘すると、何ですかそれ、という顔をする研究者が多かった。

たんに彼らの分野が経済学と違う、というだけのことなのか。

欧州でも経済学(とくに組織の経済学~かつての労働経済学)の学会では、ちがう関心を持ち、違う議論が行われているのか。しかし経営学を学ぶ人間が集まって、経済的な効率の観点がまったくなかったのは、やはりちょっとびっくりしました。

発表を聞いているうちに、2つのことを思った。1つは出稼ぎ労働者の問題、もう1つは、環境問題である。

出稼ぎ労働者とインクルージョン

出稼ぎ労働者というと、ドイツが有名だ。しかしデンマークでも、60年代から70年代に、トルコ人を中心とした出稼ぎ労働者を多数受け入れたという。

日本と同様、ヨーロッパでも当時は高度経済成長期で、労働の供給がひっ迫していた。背に腹は代えられぬと、単純なブルーカラーの仕事をしてもらうため、トルコなどから労働者を受け入れたのだ。

なぜそれが、欧州のダイバーシティをめぐる問題意識と関係しているか。

それは、当時、ダイバーシティ・マネジメントという考えがないまま、出稼ぎ労働者を迎え入れたことをめぐる反省であろう。今回の学会で、そのこと自体をとりあげた研究はなかったが、さまざまな場面で、この問題が亡霊のように出てきた。

当時の欧州では、これら出稼ぎ労働者を、組織における多様な人材として遇するという発想が全くなかったようだ。企業としても社会としても、彼らをインクルージョンするという考えが皆無だったのだ。

「出稼ぎ労働者(Guest Workerという用語をつかっていた)」という言葉が示すように、彼らは腰かけでいずれ母国に戻る労働者、とみなしていた。そして、そのような無策のつけを、デンマーク社会は今になって払っている。そのコストとは、犯罪率の上昇や社会不安、社会的分断などである。それは、値段をつけようにもつけられないほど高い、と考えているようだ。

このような後悔の念があって、企業も社会も、多様な人材を受容することは当然と考えるようになったのだろうか。これは公共経済学をつかうと、将来発生する可能性のある負の外部経済を、予防的な費用の分担を行うことで防ごう、という話である。

2019年4月に改正入管法が施行された。日本でも本格的に海外からの労働者を受け入れるようになるという。ダイバーシティとインクルージョンの観点からの議論も必要になってくるだろう。

環境問題とダイバーシティマネジメント

もう1つは、環境問題とのパラレルである。個々の企業が、環境問題にどこまで責任をもつべきか、そのためにかかるコストをどこまで負担すべきか、という問題と、ダイバーシティ・マネジメントをめぐる企業のコスト負担との間に、似た構造があるようだ。

企業の生産活動や製品の提供する価値に負の外部経済が含まれる場合、だれが環境問題の被害者の補償をするか、という問題がおこる。企業は、直接の因果関係が見えない限り、知らんふりをして、費用を負担せずにすませられるからである。

環境問題をめぐっては、日本を含む先進各国で、長い時間をかけて、具体的な法規制と社会規範の変化の2つが起こってきた。その結果、個別企業が、狭い因果関係のあるなしにかかわらず、騒音や排煙、廃液などの処理にかかる費用を負担することが、先進国ではあたりまえになった。他方、法規制も社会規範もまだ整っていない途上国では、企業はそのような費用負担を「余計なコスト」とみなしている。

CBSでの発表を聞いていて、そのことを思い出したのは、ひょっとしたらデンマークや欧州の企業経営では、環境問題と同様に、人材の多様性を認め、それを受け入れて経営することが、法的にも社会規範上も、前提として成立しているのではないだろうか、と考えたからである。

もしそうだとしたら、環境問題の場合と逆に、おそらくは組織における多様性は正の外部経済を持っていて、各企業が個別にそれを回収することは困難だが、社会全体として、その恩恵にあずかることができる、という話なのだろうか。

これら2つの点は、いままで考えたこともなかった内容だ。これからすこしゆっくりと考えてみたいと思う。